クリュニー修道院
11世紀の修道院運動の中心となったフランスの修道院。ベネティクト派の質素で規則正しい修道士の生活を復活させる改革運動の中心となった。しかし巨大な組織となるとともに次第に祈祷などの典礼が主となって、修道院としての清貧は失われ、13世紀には衰退した。
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クリュニー修道院の発展
アキテーヌ公ギヨームがブルゴーニュのマコン近郊の自分の荘園内にクリュニー修道院を建立したのは、10世紀の混迷する情勢の中、封建貴族として将来にわたる安心を得ようと教会に土地を寄進したものだった。クリュニー修道院ではベネディクトゥスがかかげた厳格な戒律の厳守、霊性の向上などをかかげ、本来の修道院のあり方を回復させようとし、その改革の主張は「クリュニー精神」と言われた。歴代の修道院長に有能な人物が続き、11世紀にはヨーロッパ各地に1500もの従属する修道院をもつ、一大修道院組織に成長した。第5代修道院長オディロン(960~1049)はローマ教皇や皇帝に並ぶ権威をもっていたという。クリュニー出身者が上位聖職者として改革の先頭に立つようになった。グレゴリウス改革
ローマ教皇の中にもクリュニー修道院の影響を受けた聖職者が選ばれるようになった。その最初は、同じく領内の教会改革の必要を認識していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世(ザーリアー朝ハインリヒ4世の父)が選んだドイツ人教皇であるレオ9世(在位1049~1054 キリスト教会の東西分裂の時の教皇)だった。レオ9世は、聖職者の粛正の第一歩として聖職売買と聖職者妻帯の禁止を宣言、改革派教皇の先駆けとなり、その改革はグレゴリウス7世(在位1073~1085年)に継承され、一連の改革をグレゴリウス改革という(グレゴリウス自身がクリュニー修道院出身であったとも言われるが、その事実は否定されている)。1075年、グレゴリウス7世は聖職売買の原因は聖職者叙任権が皇帝以下の俗権に握られていることにあるとして、皇帝の聖職叙任権を否定する勅書を発し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に送りつけた。それを拒否した皇帝を破門にしたことから、1077年、皇帝が教皇に許しを請うというカノッサの屈辱の事件がおこった。この叙任権闘争はその後も紆余曲折が続くが、クリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世が1095年に十字軍運動を提唱してヨーロッパの主導権を握り、1122年のヴォルムス協約で教皇の叙任権が確認されて教皇側の勝利となり、13世紀のローマ教皇権の最盛期へと向かう。
参考 グレゴリウス改革との関係
高校教科書ではクリュニー修道院は、厳格な規律の遵守を掲げたことが述べられ、さらにグレゴリウス改革に影響を与えたと説明されている。「世俗権力の影響を受けた教会は、聖職売買などさまざまな弊害が生じた。これに対して10世紀以降、フランス中郷部のクリュニー修道院を中心に改革運動が起こり」、教皇グレゴリウス7世がその改革を押し進めた、というわけである<山川出版社『詳説世界史』p.131>。これは誤りではないが、クリュニー修道院の実態とグレゴリウス改革との関係で誤解を与えかねない記述のようだ。堀米庸三氏の『正統と異端』<1964 中公新書>によれば、クリュニー修道院は聖職売買や聖職者妻帯を攻撃してはいたが、皇帝や国王の教会支配に対する保護権にはむしろ妥協的だった<同上 p.90>のであり、その点ではグレゴリウス改革とは異なっている。さらに、11世紀のグレゴリウス改革のころのクリニュー修道院の変質した姿には次のような説明がされている。
(引用)クリュニーの清貧は修道士の清貧ではあったが、修道院のそれではなかった。それゆえにクリュニーの繁栄は王侯のような富をもたらし,その聖堂とそのなかに営まれる生活は華麗をきわめるものとなった・・・。クリュニーでは日常の儀式典礼の荘厳化に多大の努力が払われ(クリュニーは中世多声音楽の発展者)、一日の生活中、瞑想や作務にさかれる時間がまったく犠牲にされてしまった・・・。<堀米庸三『正統と異端』1964 中公新書 p.154>「要するにクリュニーはグレゴリウス改革までに、その真の使命を果たしおえたといってよく」<同上書 p.155>、12世紀になると本来の清貧と厳格さを失って、壮大な典礼や儀式中心とするようになり、11世紀末に創設されたシトー派修道会など新しい清貧と労働と瞑想の調和を重んじた修道会が次の修道生活を担うことになる。
参考 クリュニー修道院の性格
このようなクリュニー修道院の性格の変化については、次の文が参考になる。(引用)(クリュニー修道院は)規律の遵守とともに壮麗な建築、典礼、つまり祈りの重視が際立っていた。修道士たちの共同体祭儀としてたえまなく繰り返される共誦祈祷、つまり全修道士参加しておこなわれる「神の業」、連祷など集団としてとりおこなわれる団体的精神こそは、クリュニー修道院の最大の特徴であった。また文学や神学にたいする関心は薄く、手の労働も典礼のために修道院生活から締め出されていた。これにたいして芸術、音楽、特に絵画や写本、建築など聖堂を飾るためには祈りだけでなく美の奉納、すなわち永遠なる神の全能を人々の目にみえるかたちで表現する教会建築、さらに教会内部のあらゆる細部にいたるまで飾付けをする事が重要であると考えていたからである。・・・<朝倉文市『修道院にみるヨーロッパの心』p.32>そのような荘厳な典礼が行われるクリュニー修道院に対し、国王や諸侯は死後の煉獄での救いを願って、また、墓地を修道院内においてもらうように多額の土地や財を寄進した。こうしてクリュニー修道院は、11世紀には「祈れ、働け」というベネティクトゥスの戒律の基本のうち、あまりにも「祈り」に偏ったため、本来の清貧・勤労が忘れ去られてしまった、といえるのかもしれない。
クリュニー修道院の変質と衰退
11~12世紀はクリュニー修道院の全盛期であったが、巨大化・権威化するにつれて、その権勢を背景としてそれ自身もまた豪勢な建物と装飾を誇る存在となっていった。クリュニー修道院がイエスキリストの代理人としてのローマ教皇の権威を絶対視して、儀式・典礼を極端なまでに厳粛、豪華にしたことが、高位の聖職者の日常も著しく華美、豪華になってしまい、本来の質素な修道院から再び離れていったともいえよう。そのようなクリュニー派の修道士の華美な生活を批判し、より質素な修道院生活を復活させようとしたのが12世紀に興ったシトー派修道会であった。13世紀にはフランチェスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会が活発に活動するようになり、クリュニー修道院は次第に衰微していった。 → 修道院運動
クリュニー修道院の建物は、ロマネスク様式の建築様式の代表例とされ、18世紀までその勇姿をとどめていたが、フランス革命に際して大部分が破壊され、その後は荒廃し、現存するのはその一部の塔の部分が残されているに過ぎない。
→ フランス観光公式サイト クリュニー修道院の紹介ページ