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ハインリヒ4世

ドイツ王(在位1056~1106年。1084年からは神聖ローマ皇帝を兼ねる)。叙任権闘争でローマ教皇グレゴリウス7世と争い、1077年に破門されたため教皇の許しを請う「カノッサの屈辱」の出来事となった。その後ドイツ諸侯を制圧して勢力を回復、対立教皇を立ててグレゴリウスを追放し、1084年に皇帝に即位。

 神聖ローマ帝国のザーリアー朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の長子。1056年、父の急死により、後継としてまずドイツ王となったのは、わずか6歳だったので母后アグネスが摂政となった。15歳で親政を開始したが、ドイツ・イタリア・ブルグンド(北フランス)の広大な領土では有力な貴族・高位聖職者(いずれも封建領主)が王権を脅かしていた。王位は形の上で諸侯から選ばれ、ローマ教皇から承認される(戴冠する)ことになっているが、常に有力諸侯の中には不穏な動きがあり、一方で教皇は宗教的権威を持って王位の上に立つ存在であり、ハインリヒにとって困難な統治が続いた。
注意 「カノッサの屈辱」の説明で、ハインリヒ4世は一般に「神聖ローマ皇帝」とされるが、厳密には「ドイツ王(後に皇帝に即位)」とするのが正しい。彼が皇帝として戴冠するのは1084年である。ただし、通常はドイツ王は神聖ローマ皇帝を兼ねるので、便宜上、1077年時点でもハインリヒ4世は皇帝とされることが多い。最近ではカノッサの屈辱の説明でハインリヒ4世をドイツ王とする記述が多いので、本稿でも従った。

ドイツ王としての苦境

 ハインリヒ4世の父、ハインリヒ3世はドイツ王として積極的にローマ教皇の選任に関わっていた。それは当時のローマ教皇の地位がローマの有力都市貴族出身者に占められ、しかも三人もの人物が教皇位を主張して争うという事態になっていたからである。ハインリヒ3世は1046年12月、教会会議を開催して互いに争う3人をいずれも罷免し、ドイツ人のハンブルク司教をクレメンス2世として選出させ、その教皇の手によってクリスマスに神聖ローマ皇帝として戴冠した。その後、ダマスス2世、レオ9世、ヴィクトル2世とドイツ人教皇が続けて選任され、ローマ都市貴族の影響を排除して教会改革の前段階が始まった。ところが、1056年、ハインリヒ3世は36歳で急逝、わずか5歳のハインリヒ4世が跡継ぎとなった。<山本文彦『神聖ローマ帝国』2024 中公新書 p.38-40>
 1071年には老齢のミラノ大司教が退任、ハインリヒ4世に指輪と杖(大司教の象徴)を返還した。ハインリヒは後任に国王礼拝堂のドイツ人司祭を推したが、ミラノの有力者はドイツ人を歓迎せず、また民衆の中には聖職売買や妻帯に強く反発する過激な改革派が多かったので、改革派の人物を大司教にえらび、ローマ教皇アレクサンデル2世が承認した。ドイツ国王の司教選任にローマ教皇が公然と反対するという事態とともに、ハインリヒ4世は内部にも大きな敵を抱えていた。王権の強化を目論むハインリヒは、ザクセン大公、ビッルング家の勢力を倒すため、奪われていたハルツ地方の王領の奪回を試み、ザクセン大公と戦って捕虜としたが、ザクセンの貴族や農民に反撃され破れ、ヴィルムスに逃亡し、1074年に和睦に追い込まれた。
 ローマでは1073年、アレクサンドル2世に代わり改革派の中心人物グレゴリウス7世が教皇に就任していた。しかし、ハインリヒ4世はドイツ国内での激しい戦いを抱えていたので、グレゴリウス7世の教皇即位を受け入れ、ミラノ大司教の選任も教皇に委ねざるを得なかったのだった。<『ドイツ史(上)』山川セレクション 2022 p.50-53>

教皇グレゴリウス7世との叙任権闘争

 ドイツ王ハインリヒ4世は、オットー大帝以来の帝国教会政策を維持して領内の司教などの聖職者の任命権を行使し、教会を通じての統治を続けていた。それにたちはだかったのが、1073年にローマ教皇となった改革派のグレゴリウス7世であった。かねて聖職売買などの腐敗の原因は、世俗の権力が聖職者の叙任権を持って行使しているからであると考えていたグレゴリウス7世は、1075年、俗人による聖職叙任の禁止を決定し、ハインリヒ4世に通告してきた。ハインリヒはまだ23歳であったので、ドイツ諸侯の中にも動揺が生じ、教皇に同調してハインリヒを国王から降ろそうという動きも起こった。
 しかし、ハインリヒ4世は全面的な対決を決意した。ドイツの司教たちの中にも教皇フレゴリウス7世の教会改革に反発する者も多かったので、諸侯・聖職者の中のハインリヒ支持勢力を集めて反撃し、グレゴリウス7世が不正な方法で教皇に即位したとしてその無効を宣言した。それに対し、グレゴリウス7世は1076年2月、ハインリヒに対し破門を通告してきた。ハインリヒが破門されたことを知った封建領主たちは、機会が到来したとして反乱を企て、ハインリヒは大きな危機に陥った。

カノッサの屈辱

 窮地に立ったハインリヒは、やむなく教皇にわびを入れ、破門を解いてもらおうとして、1077年1月、北イタリアのカノッサに滞在中のグレゴリウス7世を訪ねた。教皇は面会を拒否したので、ハインリヒは3日3晩、雪のふる中でたたずみ、ようやく城主マチルダらの仲介で面会が許された。グレゴリウスは、ハインリヒの主張を取り下げさせた上で破門を解いた。この事件が「カノッサの屈辱」といわれるもので、神聖ローマ皇帝がローマ教皇に屈服した形となったので、ローマ教皇権の優位が成立したと捉えられている。

ハインリヒの反撃

 しかし破門の危機から脱したハインリヒは、反撃の機会を狙った。ハインリヒの破門が解かれたので反乱の口実が失われた反皇帝派諸侯は、独自にハインリヒのドイツ王位を否認し、新たにシュヴァーベン公ルドルフをドイツ王に選出した。こうしてドイツは二人の王が併存して争うという事態となった。ハインリヒは反グレゴリウス派の大司教や司教などを味方につけ、1080年にはラヴェンナ大司教をグレゴリウスの対立教皇として選出させ、足並みのそろわない諸侯軍を次々と破り、1081年には大軍を率いてローマに遠征し、グレゴリウスを捕らえようとした。教皇は当時、南イタリアに勢力を及ぼしていたノルマン人のロベルト=ギスカルドに援軍を要請、ノルマン軍がローマに侵入したことで救出され、南イタリアのサレルノに逃れた。グレゴリウス7世をローマから追放することに成功したハインリヒは、1084年には対立教皇クレメンス3世の手によって神聖ローマ皇帝の戴冠式を挙行した。一方のグレゴリウスは、1085年、失意のうちにサレルノで死んだ。

Episode 息子二人に裏切られたハインリヒ4世

 教皇グレゴリウス7世との戦いは、ハインリヒ4世が「カノッサの屈辱」を晴らし、最後には勝利したかに見えた。しかし、ハインリヒ4世の神聖ローマ帝国皇帝位はその後も安定せず、骨肉の争いが起こってしまう。1090年には長子コンラートが離反、親子は相争うこととなり、コンラートの死後は1105年に次男のハインリヒ(後の5世)にも反逆され、息子の手で捕らえられて王座から追われ、翌年失意のうちにリエージュで没した。

ウォルムス協約へ

 一方、ローマ教皇には1088年にクリュニー修道院出身のウルバヌス2世が即位、改めて俗人の聖職叙任権を否定し、1095年に十字軍運動を提唱、西ヨーロッパキリスト教世界の主導権を握ることとなった。
 1122年、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世と改革派のローマ教皇カリクストゥス2世との間でヴォルムス協約が成立して、叙任権闘争は終わりを告げ、ローマ教皇の叙任権が保障されて権威が確立、13世紀のインノケンティウス3世のとき、その最盛期を迎えることとなる。一方、神聖ローマ帝国ではハインリヒ5世に継嗣がなく、ザーリアー朝は断絶、代わってシュタウフェン朝が成立する。