カノッサの屈辱
ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝との聖職叙任権を巡る対立から起こった事件。1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が破門を恐れてローマ教皇グレゴリウス7世に許しを請うた事件。ハインリヒ4世にとっては屈辱であったが、結局グレゴリウス7世は皇帝の聖職叙任権否定を認めさせたうえで破門を取り消した。その後も皇帝と教皇の対立は続いたが、11世紀末にはローマ教皇権の確立に向かっていく。
教皇と皇帝の叙任権闘争
カノッサ GoogleMap
ローマ教皇権の強大化
このように両者の対立は聖職叙任権闘争の一環として起こった。教皇グレゴリウス7世に対して反撃した皇帝ハインリヒ4世であったが、破門が実行されると帝国内の封建諸侯に対する統制力を失うことになるので、守勢に回ることとなる。その窮地を脱するため、ハインリヒ4世はグレゴリウス7世に面会するため、厳冬のアルプスを超え、1077年の正月、おりから教皇の滞在するカノッサ城を訪ねた。グレゴリウス7世は会おうとしなかったが、カノッサ城主トスカナ伯マティルダやクリュニー修道院長ユーグのとりなしで会うこととなった。この間、ハインリヒ4世は3日間、雪の中にわずかな修道衣のみの素足で立ちつくし、やっと面会に応じたグレゴリウスは、皇帝の聖職叙任権の否定を認めさせた上で破門を解いた。これが皇帝ハインリヒ4世にとっての「カノッサの屈辱」と言われる事件であり、一般にローマ教皇権の強大化を示す事例とされている。しかし、結果としては破門が解かれており、グレゴリウス7世が全面的に勝利をおさめたわけではなかった。
ハインリヒ4世の反撃
カノッサの屈辱
「カノッサの屈辱」によって破門を解いてもらったハインリヒ4世であったが、ドイツに戻って反撃のチャンスを探った。ドイツ諸侯はハインリヒ4世の破門が許されたことに不満を持ち、その義弟のシュヴァーベン公ルドルフを国王に擁立したため、ドイツも分裂して両派の戦いとなった。その戦いを優位に進めたハインリヒ4世は、自派の諸侯や都市、司教を固め、1080年にグレゴリウス7世が再び破門を宣言すると、逆にグレゴリウス7世の教皇廃位を決議、別にラヴェンナ大司教クレメンス3世を教皇として擁立、さらに82年には軍隊を要してローマに遠征してグレゴリウスをサレルノに追放することに成功した。それ以後、ローマ教皇はグレゴリウス以下の改革派教皇と、クレメンス3世以下の皇帝派教皇が同時に存在する分裂状態となる。グレゴリウス7世はローマに戻ることがかなわず、サレルノで1085年に死去した。
「カノッサの屈辱」の意義
このように1077年の「カノッサの屈辱」はローマ教皇が神聖ローマ皇帝に与えた屈辱であったが、長い叙任権闘争の経緯では、皇帝の教会支配に対して、教会改革を進めてていた教皇グレゴリウス7世が反撃した出来事であった。この事件は聖職叙任権をめぐる教皇と皇帝の対立が頂点に達したことを象徴する事件だった。ただし、それで決着がついたわけではなく両者の対立はその後も続いた。聖職叙任権闘争のその後
「カノッサの屈辱」では短期的には教皇は「破門」によって優位に立ったが、これで教皇権が確立したわけではなかった。ただちに武力という実力を持つ皇帝側の反撃を受け、ローマを追われ、皇帝が対立教皇を建てたため教会は分裂することとなった(後の教会大分裂とは別)。その後、グレゴリウス7世の遺志を継いだ改革派教皇ウルバヌス2世は、ハインリヒ4世と暫定的な妥協を成立させ、1093年にローマに戻った。1095年、クレルモン宗教会議を召集して俗人による聖職叙任の禁止を決議するとともに、十字軍運動を提唱し、教皇の権威回復を図った。一方の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はドイツ諸侯の反乱に悩み、皇帝を巡る紛争の中で1105年に息子に帝位を追われている。両者の和解は1122年のヴォルムス協約で妥協が成立するまで続いた。次の12世紀の十字軍時代に教皇の権威は次第に皇帝を上回るようになり、13世紀のローマ教皇権の最盛期へ向かっていく。