印刷 | 通常画面に戻る |

カノッサの屈辱

1077年、ドイツ王ハインリヒ4世が、ローマ教皇グレゴリウス7世によって破門されたことに対し、カノッサ城で面会して許しを哀願した事件。破門の理由はハインリヒ4世が聖職者叙任権を行使したことに対する教皇の怒りであり、破門を恐れたハインリッヒにとって許しを請わなければならなかったことが「屈辱」だった。この事件は教皇が優位にたって破門を取り下げたが、その後ドイツ諸侯の支持を取り付けたハインリヒ4世が反撃し、対立教皇を立て皇帝即位を承認させた後、グレゴリウス7世をローマから追放した。この事件はローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝との聖職叙任権を巡る争い(叙任権闘争)を激化させ、1122年のウォルムス協約まで続くこととなった。

事件のあらまし

カノッサ GoogleMap

ローマ教皇グレゴリウス7世1075年、教会改革の一環として世俗の権力による聖職者叙任権を否定したことに対しドイツハインリヒ4世はオットー大帝以来の帝国教会政策(皇帝が聖職者の任免を通じて教会を支配する政策)にたち、強く反発し、グレゴリウス7世の教皇の廃位を迫った。
 国王と教皇の聖職叙任権をめぐる対立は頂点に達し、1076年、教皇グレゴリウス7世は教会会議を開催してハインリヒ4世の破門と新国王選出を図ることにした。ドイツ王ハインリヒ4世は破門されることによってドイツ国王の地位から追われることを恐れ、教皇の滞在する北イタリアのカノッサ城に急行し、1077年1月25日から3日間に渡って懇願し、ようやく面会が許され、破門は取り消された。
 ハインリヒ4世は神聖ローマ皇帝とされることも多い。従来の教科書、用語集もそうなっていたが、現在では例えば『詳説世界史』世界史探求版<p.117>が「ドイツ国王(のち神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世」としている。これはより正確を期したもので、たしかにハインリヒ4世が神聖ローマ皇帝に即位するのは1084年のことであるからカノッサの屈辱の時点ではドイツ国王が正しい。厳密に言えばハインリヒ4世は1084年にクレメンス3世(対立教皇)から帝冠を授けられるが「それまではドイツ国王であっても、形式的には皇帝候補者にすぎなかった」というところであろう<鯖田豊之『ヨーロッパ中世』世界の歴史9 河出書房新社 p.177>。しかし、オットー1世以来、ドイツ王は神聖ローマ皇帝を兼ねるのが通常であり、ハインリヒ4世も後に皇帝となることから、煩雑を避けカノッサの屈辱の時も皇帝として説明することが普通だったのだろう。
決着つかなかった叙任権闘争 この事件はハインリヒ4世にとって「屈辱」であったので、ローマ教皇の優位が示されたが、それは一時的なことで、ドイツに戻ったハインリヒは反撃を準備し、諸侯・高位聖職者を取り込み、反撃に転じてグレゴリウス7世をローマから追放する。カノッサの屈辱事件で明確となった叙任権闘争はさらに続き、十字軍運動の開始を経て、1122年のヴォルムス協約で一応の解決を見ることとなる。その後、教皇権の最盛期を迎えるのは13世紀のことである。

教皇と皇帝の叙任権をめぐる対立の経緯

 ヨーロッパの宗教上の最高権力者であるローマ教皇と、ドイツの世俗権力の頂点に立つドイツ王(神聖ローマ皇帝)は、11世紀前半までは互いに補う関係にあって両立していたが、グレゴリウス7世が教皇に即位した1073年頃から、対立関係が表面化した。その対立点は聖職者叙任権をめぐるものであったが、77年の「カノッサの屈辱」で頂点に達した。どのような経緯で両者の対立がエスカレートしたか、まとめると次のようになる。
  • 教皇グレゴリウス7世は、クリュニー修道院で盛んだった修道院運動の影響を強く受け、グレゴリウス改革とも言われるカトリック教会の改革を進めようとしていた。その際、聖職者の任命権が世俗の権力である皇帝・国王や領主に握られていることが聖職売買(シモニア)・聖職者妻帯(ニコライスム)などの教会の腐敗の原因であると考えた。1075年、教皇教書の形で教皇は聖職者任免権および皇帝・国王など世俗権力の廃位もできるなどを明確にした。<教皇教書の内容についてはグレゴリウス改革および藤崎衛『ローマ教皇はなぜ特別か』p.41を参照>
  • 聖職者の中にはグレゴリウス7世の改革に反対し、ドイツ国王(実質的に皇帝)を支持するものもいた。教皇派と反教皇派の対立が最も鮮明になったのはミラノだった。ミラノは北イタリアでもドイツ王の拠点となっており、また聖職売買で聖職者になったもの、妻帯をする聖職者が多かった。それに対して市民の中に教会の腐敗を批判する勢力があり、教皇は彼らの推す改革派聖職者を大司教に任命した。ところが1075年3月30日、大聖堂が焼け落ちる大火災が起こり、改革派の民衆指導者が殺害されるという混乱となった。ハインリヒ4世は反改革派の要請を受け、新たな大司教を任命し、二人の大司教が並立する事態となった。グレゴリウス7世はこの行為は先の教皇教書に反しているとして否認、ハインリヒ4世と反教皇派の聖職者との対決を決意した。<ミラノの事件についてはオーギュスタン・フリシュ『叙任権闘争』p.99~を参照>
  • ドイツ王ハインリヒ4世は、オットー1世(大帝)が神聖ローマ皇帝初代皇帝となって以来、領内の高位聖職者に対する任命権を行使するのは伝統だと意識していた(帝国教会政策)。ドイツ・イタリアの高位聖職者の中にはグレゴリウス改革に反対し、聖職売買や妻帯を認める勢力もあり、1076年1月、ハインリヒ4世は領内の反教皇派高位聖職者と共に「われわれは教皇グレゴリウス7世に服従しない。教皇グレゴリウス7世の退位を勧告する」と宣言した。
  • 教皇グレゴリウス7世は、翌1076年2月、ハインリヒ4世と反教皇的な聖職者を破門とするとともに、ハインリヒに対してはこの破門が1年間継続した場合に国王も廃位する、と通告した。さらにドイツ諸侯に対しては、ハインリヒが反抗を続ければ、彼以外にキリスト教世界の守護者として諸侯が選んだ人物を国王として承認すると伝えた。
  • ドイツ諸侯は教皇グレゴリウス7世の通告を受け、その意を受けて新王を選出しようという動きが出はじめた。10月に反ハインリヒ派の諸侯は、翌1077年2月2日にドイツ南部のアウクスブルクで教会会議を開き、それまでに破門が解除されない場合は、ハインリヒの王権を剥奪して廃位すると決議した。
  • 国王ハインリヒ4世は、ローマ教皇とドイツ諸侯が連携することはどうしても避けなければならず、2月2日前に教皇に面会して破門を解いてもらわなければならなかった。そのため、妻と2歳の子供と僅かな従者だけを連れてシュパイエルを出発、ローマを目指した。アルプス越えの主要な峠はすでに反ハインリヒ派に固められていたので、フランス領を抜け、アルプスで最も西にあるサンスニ峠を越えてイタリアに向かうほかはなかった。道中で国王に同情した者が一緒に歩き始め、一行はだんだん人数が多くなった。
  • 教皇グレゴリウス7世は、教会会議に出席するため、アウクスブルクに向かった。その途中でハインリヒが軍勢を率いてローマを目指しているという情報が入った。これは誤報だったが、グレゴリウスは身の危険を感じ、急遽北イタリアのアペニン山脈北端のカノッサ城に避難した。ハインリヒ一行は厳寒のサンスニ峠を越えてイタリアに入り、教皇がカノッサ城に入ったという知らせを受けて急いでカノッサに向かった。
  • 1077年1月、カノッサ城にたどりついたハインリヒは、単身、城門で案内を請い、二の門まで進んだ。しかし、教皇は面会を拒む。やむなくハインリヒは、雪の降る中、粗末な服に裸足のまま、三日三晩跪き、食事も採らず許しを請うた。教皇はようやく面会に応じ、破門を解くことに同意した。
<以上、オーギュスタン・フリシュ『叙任権闘争』や藤崎衛氏の本など、多くの書から要約、構成。>
(引用)王がやってくるというあまりにも思いがけない知らせを受けて、グレゴリウス7世はレッジオの南西にあるカノッサ城に身を避けたが、この城は、教皇座のイタリアにおける最良の同盟者であった女伯マティルデのものであったから、教皇はまったく安全であった。ハインリヒ4世は、クリュニーのユーグ、・・・マティルデその人を介して直ちに彼と交渉しようとした。だが、教皇はかたくなな態度を示した。それほど彼は早まった赦免を与えれば教会の立場があぶなくなるかもしれないということを知っていたのである。しかし彼は、ハインリヒ4世が悔悛の情を示し、その助けを借りて彼の心を動かそうとしたので、ついにはその決心をぐらつかせることになるのである。
 一月二十五日、ハインリヒ4世は、どのような疑いも避けようとして、僅かの供をつれてカノッサ城の前に着いた。彼は王のしるしも帯びず、はだしで、悔悛の衣をまとって、三日のあいだ門の前にたたずみ、教皇の慈悲を哀願するのをやめなかったので、《この行為を目撃した人々やそれを伝え聞いた人々を心から感動させた》と、この事件を公式に述べているとみられるグレゴリウス7世の書簡は伝えている。教皇側近の人々も王のために取りなし、そこに居合わせた女伯マティルデとクリュニーのユーグは、教皇の《いつにない過酷さ》に驚きを示し、《あまりにもひどい残酷なこと》だと彼を非難したほどである。・・・<オーギュスタン・フリシュ/野口洋二訳『叙任権闘争』2020 講談社学術文庫 p.120-121>

ハインリヒ4世にとっての「屈辱」

 このように両者の対立は聖職叙任権闘争の一環として起こった。教皇グレゴリウス7世に対して反撃した皇帝ハインリヒ4世であったが、破門が実行されると帝国内の封建諸侯に対する統制力を失うことになるので、守勢に回ることとなる。その窮地を脱するため、ハインリヒ4世はグレゴリウス7世に面会して許しを請う以外になかった。
 ドイツ諸侯の中の反ハインリヒ派は、アウクスブルクに教皇グレゴリウス7世を迎えて教会会議を開催し、ハインリヒが破門を解かれない限り、ドイツ王から退位させる決議をすることを計画した。ドイツ王とはいえ、諸侯によって選ばれ教皇によって承認されることが必要な建前だった。
 ハインリヒがグレゴリウスに対して跪き、許しを請うたのは「屈辱」であったが、それを「カノッサの屈辱」という歴史的事件としいるのはローマ教皇側の言い方であるにはちがいない。ドイツのナショナリズムの立場では「屈辱」とはされておらず、この出来事はハインリヒ4世の「カノッサ詣で」とか「カノッサ行き」とされているにすぎない。私たち日本人が高校で教わるこの事件も「皇帝が教皇からうけた屈辱」というイメージが強く「教皇権の確立」と理解しがちであるが、ことは単純ではなかった。グレゴリウス7世が全面的に勝利をおさめたわけではなく、結果としては破門されなかったハインリヒが巻き返しに出るのである。
 グレゴリウス7世にとっては破門することが目的ではなく、教皇に屈服させることがねらいだったので、ねらいは達成できた。ドイツ国王ハインリヒ4世としては土下座をして破門をようやく解いてもらった形なので、このうえない「屈辱」であったろうが、実は心底教皇の言うことを聞くつもりはなかったことがまもなく明らかになる。また、破門を解いてしまった教皇は、詰めが甘かったとも言える。彼の強引な改革に反発していた聖職者も多かったのだ。結局ハインリヒを生き返らせてしまった。しかし、長い目で見れば叙任権闘争の結果は、ローマ教皇側の勝利で終わることとなる。

Episode 「カノッサの屈辱」は盛られたエピソード?

カノッサの屈辱

カノッサの屈辱

 このとき、ハインリヒ4世は厳冬のアルプスを超え、おりから教皇の滞在するカノッサ城を訪ねた。グレゴリウス7世は会おうとしなかったのでカノッサ城主トスカナ伯マティルダやクリュニー修道院長ユーグのとりなしでなんとか会おうとした。ハインリヒ4世は1077年1月25日から3日間、雪の中にわずかな修道衣のみの素足で立ちつくし、やっと面会が許され、グレゴリウスは教皇の聖職叙任権を認めさせた上で破門を解いた、とされている。よく知られた図ではカノッサ城で教皇に面会を求めているハインリヒ4世が中央手前で跪き、右上のカノッサ城主トスカナ伯マティルダ。左上のクリュニー修道院長ユーグに教皇グレゴリウス7世への取りなしを乞うている。教皇自身は姿を見せていない。
 この「ハインリヒが三日三晩、雪の中で許しを請い、ようやく許された」という劇的シーンは有名で、日本ではテレビのバラエティー番組の題名ともされたので、耳に馴染んでいる。しかしこの話そのものは後の年代記に物語として伝えられているだけだとも言われている。最近の概説書でも、あまり触れられなくなっているようだ。「屈辱」という言葉に引かれてハインリヒの敗北とだけとらえると間違いなので注意しなければならないが「叙任権闘争」そのものは重要な事項なので、その一環としての事件ととらえよう。

ハインリヒ4世の反撃

 「カノッサの屈辱」によって破門を解いてもらったハインリヒ4世であったが、ドイツに戻って反撃のチャンスを探った。ドイツ諸侯はハインリヒ4世の破門が許されたことに不満を持ち、その義弟のシュヴァーベン公ルドルフを国王に擁立したため、ドイツも分裂して両派の戦いとなった。その戦いを優位に進めたハインリヒ4世は、自派の諸侯や都市、司教を固めた。1080年にグレゴリウス7世が再び破門を宣言すると、逆にグレゴリウス7世の教皇廃位を決議、別にラヴェンナ大司教クレメンス3世を教皇として擁立、さらに82年には軍隊を率いてローマに遠征してグレゴリウスを追放することに成功した。84年には、ハインリヒ4世は、対立教皇クレメンス3世の手によって、ようやく神聖ローマ皇帝の戴冠式を挙行し、正式に即位した。それ以後、ローマ教皇はグレゴリウス以下の改革派教皇と、クレメンス3世以下の皇帝派教皇が同時に存在する分裂状態となる。グレゴリウス7世はローマに戻ることがかなわず、サレルノで1085年に死去した。

「カノッサの屈辱」の意義

 このように1077年の「カノッサの屈辱」はローマ教皇がドイツ国王に与えた屈辱であったが、長い叙任権闘争の経緯では、皇帝の教会支配に対して、教会改革を進めてていた教皇グレゴリウス7世が反撃した出来事であり、聖職叙任権をめぐる教皇と皇帝の対立が頂点に達したことを象徴する事件だった。ただし、それで決着がついたわけではなく両者の対立はその後も続いた。

聖職叙任権闘争のその後

 「カノッサの屈辱」では短期的には教皇は「破門」によって優位に立ったが、これで教皇権が確立したわけではなかった。ただちに武力という実力を持つドイツ王ハインリヒ4世側の反撃を受け、ローマを追われ、皇帝が対立教皇を立てたため教会は分裂することとなった(後の教会大分裂とは別)。その後、グレゴリウス7世の遺志を継いだ改革派教皇ウルバヌス2世は、ハインリヒ4世と暫定的な妥協を成立させ、1093年にローマに戻った。そのウルバヌス2世が1095年クレルモン宗教会議を召集して俗人による聖職叙任の禁止を決議するとともに、十字軍運動を提唱し、教皇の権威回復を図った。一方の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はドイツ諸侯の反乱に悩み、皇帝を巡る紛争の中で1105年に息子に帝位を追われている。
 両者の和解は1122年ヴォルムス協約で妥協が成立するまで続いた。次の12世紀の十字軍時代に教皇の権威は次第に皇帝を上回るようになり、13世紀のローマ教皇権の最盛期へ向かっていく。
 POINT  「カノッサの屈辱」は「叙任権闘争」の流れの中で起こった一つの事件として捉えること。その際に、ドイツ王といえども諸侯によって選ばれ、ローマ教皇から戴冠されて初めて神聖ローマ皇帝となるという神聖ローマ帝国の本質、グレゴリウスが教会改革の一環で叙任権を国王(皇帝)という世俗権力の手から奪い返そうとしたこと、叙任権闘争その後はその後も50年近く続き、ウルバヌス2世の十字軍提唱は教皇権の復興のために出されたこと、1122年のヴォルムス協約でローマ教皇の聖職叙任権が確立し、一応収束することなどを押さえておこう。

参考 ゴンブリッチの見方

 「カノッサの屈辱」を我々はどのように見れば良いのか。20世紀最良の美術史家と言われるウィーン生まれのゴンブリッチは「叙任権闘争」について述べた文の中で、「カノッサの屈辱」を次のように言っている。
(引用)今日なお人びとは、ひとりの人間が寛大な処置をねがってへりくだらなければならないとき、「カノッサへの道行き」という。しかしここでわたしはきみに、同じ出来事について王の友人のひとりが伝えることを教えよう。そこには、次のように書いてあるのだ。「自分の立場がいかに不利であるかさとったハインリヒは、ひそかにかしこい計画を考えついた。そしてとつぜん、人びとの予想に反して、教皇のもとをめざして旅立った。この旅で彼は、いっきょにふたつの利益を得ようとしたのだ。ひとつは、破門から解かれること。ふたつは、自分が教皇の前に姿をあらわすことでもって、彼がもっともおそれた教皇と敵との同盟を妨害することであった。」
 このように、教皇の側に立つ者は、「カノッサの道行き」を教皇の偉大な成果とみなし、王の支持者は、それを自分たちにとっての大きな利益とみなしたのだ。このように、ふたつのあい争う勢力について判断しようとするとき、わたしたちは注意しなければならないのだ。・・・<エルンスト・H・ゴンブリッチ『若い読者のための世界史』上 2012 中公文庫 p.230>