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ヴォルムス協約

1122年に成立した宗教和議。神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ5世とローマ教皇カリクストゥス2世の間で締結され、叙任権闘争を終結させた。皇帝が帝国教会政策を放棄した内容であり、これによってローマ教皇権が確立した。

ウォルムス GoogleMap

1122年に成立した、神聖ローマ皇帝ローマ教皇の間の叙任権闘争を終わらせた宗教和議。11世紀末、改革派教皇ウルバヌス2世の提唱で十字軍運動が始まり、改革派教皇の権威が高まる中、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世ハインリヒ4世の子)は、対立教皇への支持を止め、改革派教皇カリクストゥス2世との交渉をはじめ、行き詰まった聖職叙任権問題の打開をはかった。背景にはイギリス・フランスでは宗教上の権能の授与は教皇が叙任し、領地の付与は俗権が叙任する、という妥協が成立していたことがある。
 ヴォルムス協約は形式的なさまざまな取り決めがあったが、基本的には皇帝側が帝国教会政策を放棄して、ドイツ以外での司教任命権を放棄することを認めた。これによって長く続いた聖職叙任権闘争は終わりを告げ、皇帝と教皇がならび立つ西ヨーロッパの政治体制ができあがり、さらに十字軍運動を通じてローマ教皇権は全盛期を迎えることとなる。
 ヴォルムスはライン川中流左岸にあり、ローマ時代に建設され、4世紀以来司教座が置かれている。1521年には、神聖ローマ皇帝カール5世がヴォルムス帝国議会を召集し、ルターに自説の撤回を迫ったが、ルターが拒否したことで知られる。

資料

 ヴォルムス協約は皇帝と教皇の相互の書簡という形で締結された。要点を抜粋する。
皇帝側文書 聖なる不可分の三位一体の名において。神の恩寵によるローマ皇帝アウグストゥスである私ハインリヒ(5世)は、神と聖なるローマ教会への愛から、そして教皇カリクストゥスに対して、わが魂の救済のため、神と神の聖なる使徒ペテロ、パウロならびに聖なる正統教会に指輪と杖をもってするすべての叙任(権)を譲渡し、次の事を許可する。すなわちわが王国および帝国内に在るすべての教会において、カノン法的な選挙と自由な叙階が催されることを。(下略)
教皇側文書 私、司教、神の僕の僕たるカリクストゥス(2世)は、わが最愛の息子、神の恩寵によるローマ皇帝、帝国の拡張者たる汝ハインリヒに、ドイツ王国内の帝国に服属している司教・修道院長の選挙が汝の臨席において、シモニア(聖職売買)や何らの強制力も伴わずに開催されることを許す。(中略)選出された者はしかしながら、汝から笏(しゃく)を通じてレガリア(世俗的諸特権)を得るべきであり、その者は汝に対し自己の権利に基づいて負うところの責務を果たすべし。しかし、帝国の他の領域においては、叙階された者は六ヶ月以内に汝によって笏を通じてレガリアを得、その者が自己の権利に基づいて汝に負うところの責務を果たすべし。(下略)<歴史学研究会編『世界史史料』5 岩波書店刊 p.202-203>

協約のポイント

 上記資料はわかりずらいが、整理すると次のようになるだろう。まず、双方で問題となる権利関係には、叙任権(司教などの聖職者の任命権。これは「指輪と杖」によって象徴されている)と教会の土地所有などの世俗的権利(レガリア。これは「笏」に象徴される)の2つがあった。要約すると次のようになる。
  • 皇帝は、司教などの聖職者を任命する権利(聖職叙任権)を放棄する。聖職は聖職者の自由な選挙によって叙階される。皇帝は臨席できるが、決定権はない。
  • 世俗的諸権利はドイツ国内の場合とその他の場合で異なる。まずドイツ国内では、聖職に選任(叙階)される者は(それ以前に)国王から世俗的権利を与えられていなければならない(つまり国王が授封した者の中から選任する)。その他の地域では教会が聖職叙任した者に対して国王が授封する。
 わかりづらい取り決めであるが、要するに皇帝は叙任権を放棄したが、ドイツにおいては授封を先行させることで実質的な叙任権を保持した、ということであろう。その他の地域とは当時ドイツ以外で神聖ローマ帝国に属していた、ブルグンドとイタリアのことで、それらの地では皇帝は叙任権を放棄し、授封権だけを確保したと言うことになる。

ヴォルムス協約の歴史的意義

 細かい解釈はさておいて、歴史的な意義は、神聖ローマ帝国の皇帝が、オットー1世以来の帝国教会政策を放棄し、聖職叙任権の大部分を失った、ということである。それは聖職叙任権闘争の一応の終結と見ることが出来る。つまり、世俗的権力を行使する皇帝と、聖界(宗教的)権力を行使する教皇という権能の違いが明確にされた(「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」というイエスの言葉の実現)、と考えることが出来る。ただし、ドイツ王としてはドイツ国内の教会に対する世俗的権利の授与(授封)の権利を保持したので、なおも影響力を残し、そのため皇帝と教皇の争いは完全に終結したのではなかった。

ヴォルムス協約後のヨーロッパ

 またヴォルムス協約の後の歴史の流れも含めて見れば、この協約によって聖職叙任権を明確に獲得したローマ教会を頂点としたカトリック教会の権威が確立し、やがて13世紀には教皇が世俗の皇帝や国王よりも強い政治的権力を振るうようとともに、聖職者ヒエラルヒーを通じて社会の隅々まで教皇の権威が行き渡り、民衆の精神や日常生活をも支配するようになるのである。このようなカトリック教会の政治的・社会的そして文化的な優位は、14世紀からのルネサンスで揺らぎ始め、16世紀の宗教改革をへて大きく動揺するが、17世紀までは大きな力を保ち、18~19世紀の市民革命の時代まで続くこととなる。

山川教科書の混乱

 ヴォルムス協約に関する『山川出版社詳説世界史』の記述は不十分であり、また多少の混乱がある。
・1997年 旧課程の改訂版 「ヴォルムス協約により、教会権力の大幅な自立性が認められた。」
・2006年までの新課程版 「ヴォルムス協約で、皇帝は聖職叙任権を失った。」
・2007年からの現行版 「ヴォルムス協約で両者の妥協が成立し、皇帝はドイツ以外での聖職叙任権を事実上、放棄した。」p.138
なお、最近評判の山川出版社の一般向けの『もういちど読む山川世界史』ではヴォルムス協約の記述がなされていない。 他の教科書では、次のような記述が見られる。
・実教出版 「ヴォルムス協約で妥協が成立した。」欄外注記「司教叙任の権利は教皇を頂点とする教会に属するものとされ、皇帝は世俗的権力だけを統括するものとなった。」p.142
・東京書籍 「ヴォルムス協約で政教分離の妥協が成立し、皇帝は聖職者の任命権を失った。」p.156

出題 2010年 一橋大学

 以上のように、教科書では皇帝と教皇の妥協であり、どちらかというと皇帝が譲歩して叙任権をほぼ放棄した、と言ったところに落ち着くであろうが、この件に関してつっこんだ設問が2010年度の一橋大学で見られた。
第1問 次の文章を読んで、問いに答えなさい。
「政治的主権者は、もしキリスト教徒であれば、かれ自身の領土における教会の首長である。キリスト教徒たる主権者たちにおける、政治的権利と境界的権利との、この統合から、政治と宗教との双方における人々の外的行為を統治するために人間にあたえられうるかぎりの、あらゆる様式の権力を、彼らの臣民たちに対してかれらがもっているということは、明白である。そして、かれらは、コモン・ウェルスとして、および教会としての、かれら自身の臣民を統治するために、かれらが最適と判断するであろうような諸法を、つくっていいのであって、国家と教会とは、同一の人々なのである。」(ホッブズ『リヴァイアサン』水田洋訳より)
問い.17世紀に執筆されたこの文章は、当時のヨーロッパ世界になお残っていた政治・社会状況を前提に書かれている。中世のヨーロッパ世界では、11世紀後半から13世紀初頭にかけて、皇帝(世俗権力)と教皇(教会権力)との関係が大きな政治問題として顕在化していた。皇帝権と教皇権とのあいだで展開された一連の政治闘争は、1122年の協約によって一応の結論に達したとされる。この争いが現実の政治・社会生活に対してもった意義とは、どのようなものだったのだろうか。1122年に締結された協約の意義にも言及しながら論じなさい。(400字以内)

解答例

解説

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