オットー1世(大帝)
東フランク王国ザクセン朝の王。マジャール人を撃退。イタリアに遠征して、962年に戴冠しローマ皇帝となる。後に神聖ローマ皇帝初代とされ、オットー大帝と言われる。
東フランク王国(ドイツ)のザクセン朝第2代の国王。オットー大帝と言われ、後には神聖ローマ帝国の初代皇帝とされている。在位936~973年。 → オットーの戴冠
そのねらいは、教会支配を通じて諸侯の力を抑え、皇帝権力を強めることにあった。また国家行政の主要な部分を聖職者に委ねたが、それによって役職者の世襲化を防ぎ(聖職者は妻帯できなかったので)、ラテン語を読み書きでき文書を扱うのになれていた聖職者を使うことで行政の能率が上がり、全国的な均質な行政が可能になるなどの利点があった。<阿部勤也『物語ドイツの歴史』中公新書 p.14>
オットー1世の登場
911年、東フランク王国でカロリング家の国王ルートヴィヒが死去し、その家系が途絶えると、東フランクの諸侯(部族大公)はフランケン大公のコンラート1世に続いて、ザクセン大公のハインリヒ1世を国王に選出した。カール大帝の時、フランク王国に征服されたザクセン人の中から国王が出たわけであるが、それはカロリング家の諸王がノルマン人やマジャール人の侵攻に対処できなかったためであり、諸侯がより強力な王権を求めたためであった。ハインリヒ1世はその期待に応え、933年にマジャール人との戦いに勝利した。その子でザクセン朝第2代国王となったのがオットー1世であった。オットーはバイエルンなどの有力部族を抑え、936年にアーヘンで東フランク国王(ドイツ王)に即位し、外敵の侵入を防止して勢力を東方に拡大しながら、有力諸侯を抑え、国内統一につとめた。その際、教会勢力に対して保護と同時に統制に努め、聖職叙任を通じて教会を支配する帝国教会政策を推進した。マジャール人を撃退
955年には、レヒフェルトの戦い(アウグスブルク近郊)で東方から侵入したマジャール人を破り、さらに周辺のスラヴ人に対して軍事植民を行い、征服活動と共にキリスト教の布教に努めた。イタリア遠征と戴冠
961年にはローマに遠征し、北イタリアで教皇領を脅かしていたベレンガリオ2世を倒し、イタリア王位継承権を持つロターリオ2世の未亡人アデライーデと951年に結婚し、パヴィアにおいてランゴバルド・イタリア王を名乗ることとなった。翌962年、教皇ヨハネス12世から「皇帝」の称号と冠をうけ(オットーの戴冠)した。後にこの戴冠によってオットー1世は初代の神聖ローマ帝国皇帝と擬せられ、「神聖ローマ帝国」の出発点とされることとなった。帝国教会政策
オットー1世は、国内の有力諸侯を抑えるために、キリスト教ローマ=カトリック教会を利用した。以前からゲルマン社会では教会を創建した有力者の私有物と見るのが一般的であったが、オットー1世はその習慣を拡大し、帝国内の教会は皇帝の保護を受けるとともに皇帝に服するものであるとして、司教以下の聖職者に自らの一族を任命して、その統制に当たった。これらの聖職者は同時に帝国の官僚としても活動し、教区内の農民は皇帝軍の兵士として徴用された。このような政策を帝国教会政策という。そのねらいは、教会支配を通じて諸侯の力を抑え、皇帝権力を強めることにあった。また国家行政の主要な部分を聖職者に委ねたが、それによって役職者の世襲化を防ぎ(聖職者は妻帯できなかったので)、ラテン語を読み書きでき文書を扱うのになれていた聖職者を使うことで行政の能率が上がり、全国的な均質な行政が可能になるなどの利点があった。<阿部勤也『物語ドイツの歴史』中公新書 p.14>
聖職叙任権問題へ
帝国教会政策(制度)は、皇帝のイタリア政策と同じく、オットー1世以降の神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝が継承することとなり、それによって神聖ローマ皇帝はローマ教皇に対して優位に立っていたが、11世紀にはローマ教皇側の反撃が始まって、聖職叙任権闘争となり、1122年のヴォルムス協約で妥協(皇帝側の)が成立して終結するまで続くこととなる。