コンスタンツ公会議
15世紀のローマ=カトリック教会の公会議。1414~1418年までドイツ南部コンスタンツで開催され、・教会の大分裂を終わらせる・フスなどを異端と断定する・公会議が教皇の権威より上にあることなど重要な決定を行った。
コンスタンツ GoogleMap
西欧封建社会の危機の回避
1414年11月1日から1418年まで、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝、兼ハンガリー王・ボヘミア王)ジギスムントの提唱で公会議が召集された。開催地コンスタンツはドイツ南部、スイスとの国境にあるボーデン湖に面した都市。会議には枢機卿33名、司教900名、学者2千人、世俗諸侯多数が参加した。公会議という教会の意思決定の会議であるが、参加者に世俗の代表も加わったことで判るように、教会大分裂、フスの教皇・教会批判を西欧封建社会の総体的な危機として捉えた教会や世俗諸侯などの支配層が、危機を回避し体制の維持を図るために開催した、中世ヨーロッパにおける一種の国際会議という意味を有していた。
コンスタンツ公会議の議題
会議の主要議題は、1.教会の統一(大分裂=シスマの解決)、2.信仰(フス派などの処置)、3.教会改革(教皇と公会議の関係など)三点とされた。それらの議題はそれぞれどのような結論に至ったか、まとめると次のようになる。- 教会の統一 現職の三人の教皇はいずれも退任させ、あらたに教皇を選出することを決定した。三人の教皇のうち、ヨハネス23世は正統教皇でありながら退位させられることに不満をもち、会議をボイコット、コンスタンツを脱出したが、ジギスムントに捕らえられて退位を迫られ、結局、同意した。グレゴリウス12世は会議の決定に従ってすんなり辞任したが、アヴィニヨンのベネディクトゥス13世は最後まで抵抗し、辞任を拒んだ。彼は故郷スペインで依然として教皇を名のっていたが聖職者や諸侯の中に支持するものが無く孤立し、1417年についに廃位された。こうして三教皇の退位が確定したことを受け、ようやく公会議は新教皇としてマルティヌス5世(1417~1431)を選出した(まるで現代の大企業で株主総会が社長を解任するような騒ぎだったのですね)。これによってローマ教皇は唯一の存在となり、教会の統一は回復された。
- フスの処置 フスに対する処置は、ボヘミア 王でもあったジギスムントにとって重要な課題だった。彼はフス派に対して同情的な気持ちもあったらしいが、会議の結論は厳しいものになった。フスは3日間にわたった審問の結果、異端であると断罪され、1415年7月6日に火刑に処せられた。フスに影響を与えたイギリスのウィクリフも異端であると断定され、すでに死んでいたがその遺体を掘り出され、著作とともに改めて火刑にされた。しかしこの処置は、現地ベーメンのフス派の農民の抵抗心に火をつけ、1419年からフス戦争(1419~36年)という農民戦争を引き起こすこととなる。
- 教会改革 コンスタンツ公会議は現職の三教皇を退任させたことによって、公会議が教皇の存在の上に立つことを明らかにし、1417年、新教皇にマルティヌス5世を選出した。その上で公会議の定期的開催などの教会改革案を提出したが、いったん教皇が選出されれば、改革の実行は教皇に委ねられるという自己矛盾したものであったため、改革案はうやむやのまま実施されなかった。ドイツ王ジギスムントは改革を進めようとしたが、当時は百年戦争の最中であり、イギリス、フランス、さらにフランスの中のオルレアン派とブルゴーニュ派の対立など利害の不一致が大きく、教会改革への関心は薄れていった。また、フス問題で教会が一致して厳しく当たろうとすれば教皇の権威を認めざるをえないという矛盾を抱えていた。結局、コンスタンツ公会議は、公会議至上主義によって開催されたものの、それを定着させることはできず、教皇絶対主義に戻ってしまった、と言うことができる。 → 公会議至上主義
資料 コンスタンツ公会議「公会議教令」
1414年11月から始まったコンスタンツ公会議、1415年4月6日に公会議教令「ハエク・サンクタ・シノドゥス」が出され、カトリック教会の統一(シスマの解消)と公会議至上主義の原則が打ち出された。次がその一部である。(引用)このコンスタンツにおける神聖公会議は、普遍公会議を構成し、教会が直面するシスマ(教会分裂)の根絶と、神の教会の頭と肢体にわたる統一と改革を生み出し全能の神を讃えるべく、聖霊において正統に会集した。その目的は、より容易に、安全に、実り多く、自由に、神の教会の統一と改革を定めるためであり、公会議は次の如く定め、制定し、判決し、公告する。
第一に公示される事は、この聖霊において正統に会集した全体公会議は、戦う正統教会を代表し、キリストから権力を直接に受領していることである。信仰の統一とシスマの根絶、頭と肢体にわたる神の教会の全般的改革に関する事柄においては、いかなる地位・位階を持つ者であろうと、たとえ教皇位にある者も、この公会議に従う義務がある。同じく公会議は公告する。いかなる地位・位階を持つ者も、たとえその者が教皇位にあろうと、この聖なる教会会議や全体公会議など、正統に会集した会議の訓令、規則ないし規定、あるいは命令に抗して、上述の事柄もしくは教会会議に属する事柄、既に決定され、また決定されるであろう事柄に関して、服従することを頑なに拒むならば、相応しい処罰に服せしめられて然るべきなり。もし必要ならば、他の法律に依拠してもである。<歴史学研究会編『世界史史料5』2007 岩波書店 p.212>