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ジギスムント

4世紀末~15世紀のハンガリー王、神聖ローマ皇帝。1396年、ニコポリスの戦いでオスマン帝国軍に敗れる。1414年からのコンスタンツ公会議を召集し、教会の統一を図り、ベーメンのフス派を弾圧した。

 神聖ローマ皇帝、ルクセンブルク家のカール4世の子。1378年にブランデンブルク辺境伯、1387年にハンガリー王となる。ヨーロッパキリスト教世界の大きな脅威となっていたオスマン帝国の侵攻に対し、1396年にニコポリスの戦いを戦ったが敗れた。次いで神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝、在位1411~37年)としてコンスタンツ公会議を召集して、当時大分裂(大シスマ)の状態にあった教皇権を統合し、教会の統一をはかった。さらにベーメン王としてフス派の農民反乱(フス戦争)を鎮圧した。このように、ジギスムントは14世紀末~15世紀初頭に神聖ローマ皇帝・ハンガリー王・ベーメン王などを兼ねて、オスマン帝国との戦い、カトリックの教会統一、フス派の弾圧などを行った重要な人物である。時代はルネサンスであるが、ジギスムントは神聖ローマ皇帝として中世から近世への過渡期に対処した人物と言うことができる。

オスマン帝国との戦いに敗れる

 ジギスムントがハンガリー王となったころ、バルカン半島に侵攻したオスマン帝国の勢力が更に北上してブルガリアを従え、1389年には1389年コソヴォの戦いではセルビア王国などの連合軍が敗れた。
 ジギスムントはキリスト教世界をオスマン帝国の脅威から守るため、ヨーロッパ各国に十字軍結成を呼びかけ、ドイツやフランスの諸侯の参加を得て、オスマン帝国勢力圏に遠征し、1396年ニコポリスの戦いバヤジット1世のオスマン軍と戦った。しかしオスマン帝国の組織的集団戦に対して十字軍の騎士戦法が通じず、敗北を喫した。ジギスムント自身も捕虜になりかけたが辛くも脱出し、ドナウ川から黒海に逃れ、エーゲ海、アドリア海を通ってハンガリーに逃げ帰った。オスマン帝国の侵攻は1402年にアンカラの戦いでオスマン帝国がティムールに敗れたため、一時収まった。

教会大分裂の解消

 ジギスムントは神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝、在位1411~37年)に選出されると、オスマン帝国の伸長に対するキリスト教世界の防衛のためと、帝国内のフス派の教会改革運動を抑えるために、当時大分裂(大シスマ)の状態にあったローマ教皇権の統一を望んだ。神聖ローマ皇帝に即位するとその最大の課題である教会統一問題に取り組み、1414年~18年のコンスタンツ公会議を主催した。教会の統一に成功すると共に公会議の優越の実績を作り、さらにローマ教皇を批判するボヘミアのフスやそれに影響を与えたイギリスのウィクリフ(既に死んでいたが)を異端として断定し、フスを処刑した。

フス派に対する弾圧

 コンスタンツ公会議後、1419年にはジギスムントはベーメン(ボヘミア)王を兼ねることになったが、異端と断定されたフスが処刑されたため、ボヘミアの新教徒はジギスムントに激しい抵抗を開始した。これがフス戦争である。ジギスムントはフス派との戦いも「十字軍」と称してドイツ諸侯を動員して弾圧にあたったが苦戦し、抵抗は1434年まで続いた。ようやくジギスムントはフス派の要求を一定程度認めるかわりに、1436年にようやくボヘミア王位を承認された。
 ジギスムントはプラハ大学を閉鎖し、フスを異端として処刑したが、プラハ大学を創建してフスを教授として招聘したのはその父カール4世であった。1437年、死去し、男子が無かったので、その女婿のハプスブルク家のアルブレヒトが次期神聖ローマ皇帝に選ばれ、しかもベーメン、ハンガリー王も相続し、そこからハプルブルク家が神聖ローマ帝国の皇帝位を独占するようになった。
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