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アンカラの戦い

1402年、ティムールがオスマン帝国軍を破った戦い。オスマン帝国の進めていたバルカン侵攻が一時停滞した。

 ティムール朝ティムールは1400年からオスマン帝国領の小アジア、シリアに侵略の手を伸ばしていた。1402年、小アジアのアンカラ(現在のトルコの首都)の近郊で両軍の決戦が行われ、ティムールとオスマン帝国のスルタン、バヤジット1世が相対した。戦いはティムールの圧勝に終わり、バヤジット1世を捕虜とし多くの街を略奪した。ティムールはバヤジット1世を格子付きのかごに乗せ、多くの捕虜とともにサマルカンドに連行するつもりであったが、これを知ったバヤジット1世は服毒して自殺した。この敗戦の結果、オスマン帝国のコンスタンティノープル占領は半世紀遅れたと言われる。<加藤九祚『中央アジア歴史群像』1995 岩波新書 p.109 などによる>

ティムールの勝因

 アンカラの戦いでのティムールの勝因は、不利な場所での決戦を巧みに避け、オスマン軍に夏期の行軍を強いたこと、事前にアナトリア諸侯から情報を得て根回しを終えていたためオスマン軍から離脱者が続出したことなどがあげられる。情報収集や事前工作など十分な準備はティムールの軍略の特徴で、彼は各地に間諜や協力者をおいていたという。情報収集には諸国を遍歴するスーフィズムの修行者も利用された。<久保一之『ティムール』世界史リブレット人36 2014 山川出版社 p.36,38>

参考 オスマン帝国側から見ると

 バヤジット1世の率いるオスマン帝国軍は、オスマン朝本来の軍団の外に旧キリスト教国出身のイェニチェリ、それに征服された小アジアの小侯国から動員された部隊などからなる寄せ集めの集団だった。小アジアの小侯国の舞台はティムールの裏切り工作に応じ、途中でオスマン軍を離脱した。イエニチェリ軍団はしぶとく抵抗したが、敗北が決定的になると王子スレイマンを連れて戦線を離脱、バヤジット1世は王子ムスタファとともに捕虜となった。稲妻王と言われたバヤジットであったがティムール軍に鄭重に扱われたとも、檻に入れられて侮辱されたとも言われるが、ほどなくして囚われの身のまま死去している。<小笠原弘幸『オスマン帝国』2018 中公新書 p.60>

アンカラの戦いの戦後

 アンカラの戦いは、ティムールが行った数多い外征の一つであった。その勝利によってオスマン帝国を事実上崩壊に追いこんだが、すでに本拠をバルカン半島に移していたオスマン帝国(都はエディルネ)軍を追撃することはなく、また小アジアを帝国領とすることもなかった。すでに中央アジアから西アジアにかけて成立していたティムール帝国ともいわれる領土はそれ以上は拡張しなかった。ティムールの関心は次ぎに東方に移り、明の永楽帝との決戦をめざして、1404年に中国遠征に出発、その途上で、翌年死去する。
 一方敗れたオスマン帝国(便宜上後の「帝国」の称号をそのまま使用。実態はこの段階では帝国とは言えない)は壊滅的打撃を受けた。滅亡はしなかったものの、それ以前の1389年コソヴォの戦い1396年ニコポリスの戦いで得ていたセルビアやハンガリーなどの領土を一時放棄しなければならなかった。
 アンカラの戦いにおけるオスマン帝国の敗北は、ビザンツ帝国にとってもその脅威となっていたオスマン帝国が弱体化したことによって幸運だったと言え、その支配領域はコンスタンティノープル周辺だけになっていたとはいえ、なおも約半世紀存続することができた。この約50年間、オスマン帝国は次のメフメト1世とムラト2世の再建のための準備期間となり、イェニチェリシパーヒーなどの軍事力を回復させて、メフメト2世のときに目標をコンスタンティノープル攻略再開に向けていくこととなる。
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書籍案内

加藤九祚
『中央アジア歴史群像』
1995 岩波新書

久保一之
『ティムール
草原とオアシスの覇者』
世界史リブレット36
2014 山川出版社

小笠原弘幸
『オスマン帝国―繁栄と衰亡の600年史』
2018 中公新書