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モハーチの戦い

1526年、オスマン帝国スレイマン1世がハンガリーなどのキリスト教国連合軍を破った戦い。オスマン帝国がハンガリーを支配することとなった。

 モハーチは現ハンガリー南部、ドナウ川中流の右岸。モハッチ、モハーチュとも表記する。1526年オスマン帝国スレイマン1世はバルカン半島からハンガリーに進撃し、神聖ローマ帝国ベーメン王国(チェコ)とハンガリー王国の連合軍とモハーチで対戦した。

オスマン帝国スレイマン1世の勝利

 ハンガリー王国では封建諸侯の結束が弱く、また農民層の支持もなかったため、オスマン帝国の組織的軍事力に抵抗することができず、敗北せざるを得なかった。この敗戦は、1517年から宗教改革が始まっていたヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃を与えた。スレイマン1世はハプスブルク家の本拠であるウィーンを目指し、1529年にはウィーン包囲(第1次)を行い、さらに大きな脅威を与えることとなる。

ハンガリー王国の実質的消滅

 モハーチの戦いでベーメン・ハンガリー王のラヨシュ2世が戦死したため、その両国の王位はラヨシュ2世の妻マリアの兄であるハプスブルク家フェルディナント(神聖ローマ帝国皇帝カール5世の弟)が継承した。
 モハーチの戦いの結果、ハンガリー王国の大部分はオスマン帝国の支配を受けるようになり、ハンガリー王の称号は実態が無いという状態となり、それは約160年続くこととなる。
 一方、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝の称号とともにドイツ王・ベーメン(チェコ)・ハンガリー王位(その大部分の実際の支配はオスマン帝国に奪われているが)を併せ持ち、広大なハプスブルク帝国を形成することとなった。

オスマン帝国のバルカン進出と宗教改革

 オスマン帝国スレイマン1世の圧力が神聖ローマ帝国を脅かしていた16世紀初めは、ヨーロッパ・キリスト教世界はルター宗教改革の真っ最中であった。神聖ローマ皇帝カール5世は、内部からはルター派、外部からは西のフランス(フランソワ1世)と東のオスマン帝国という三重の敵と戦わなければならない状況に置かれていた。1526年シュパイアー帝国議会でカール5世がルター派の信仰を一旦認めたのは、キリスト教国軍がモハーチの戦いでオスマン帝国軍に敗れていたからである。この危機が一旦去るとカール5世はフランソワ1世のフランスとの戦いに転じ、ルター派に対する態度を改め、1529年に再開されたシュパイアー帝国議会で信仰の自由を取り消した。
 それに対してルター派が抗議文を発したことからルター派の新教徒をプロテスタント(抗議する人の意味)と言われるようになる。その年、オスマン帝国の圧力が再び強まり、第1次ウィーン包囲という最大の危機となったが、年末にオスマン帝国軍が引き揚げたので乗り切ることが出来た。
 その後もオスマン帝国はキリスト教世界に大きな脅威として続くが、1683年のウィーン包囲(第2次)の失敗以後は、次第に力関係が逆転していく。

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