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カーヌーン

オスマン帝国において、宗教上のイスラーム法(シャリーア)に対して、スルタンが発布する世俗的な命令、法令をカーヌーンといった。カーヌーンを集大成したスレイマン1世は「カヌーニー」と呼ばれた。

 イスラーム世界には人々が守るべき法として、クルアーンやハディースに基づいたイスラーム法(シャリーア)と慣習法)があるが、オスマン帝国(3)では代々のスルタンが、帝国の統治上に必要な行政、徴税などに関する世俗法をそのつど発布していた。オスマン帝国の領土が拡張されるにともない各地の慣習法も取り入れられていったが、次第にシャリーアの原則と、現実的な統治のための命令が食い違う場合が出てきた。オスマン帝国ではスンナ派の法学者(ウラマー)がその調整にあたり、場合によってはシャリーアを現実的に解釈し直して、スルタンの名でカーヌーンとして発布した。
 オスマン帝国がイスラーム教発祥の地アラブを征服して支配下に収めたことによって、シャリーアとカーヌーンの二本立ての法体系の矛盾を解決し、広範な帝国全土を統治するために政治、税制、軍事制度の統一的な基本法典をつくることが必要になってきた。歴代のスルタンはそのためのカヌーの発布をはかってきたが、コンスタンティノープルを征服したメフメト2世ははじめてカーヌーンを集成して『カーヌーン=ナーメ』として発布した、さらに16世紀にオスマン帝国の全盛期となったスレイマン1世は、さらに緻密に体系化された『カーヌーン=ナーメ』を制定した。スレイマン1世のナーヌーンはその後、18世紀まで帝国の基本法典として用いられたので、立法者を意味する「カーヌーニー」と呼ばれた。

スレイマンの『カーヌーン=ナーメ』

 スレイマン1世の『カーヌーン-ナーメ』は、三つの部門から成り、第一の部門が三つの章、第二の部門が七つの章、第三の部門が七つの章に区分される。内容的には刑法に関するカーヌーン、租税に関するカーヌーン、レアヤ(従属民)ないし兵士の身分に関するカヌーンなどを包括する。特にティマール(封土のこと)やゼアメット(同上)の領主と領民の権利、財政的な地位にふれ、新しく征服した国土を含めて、国有地などの土地の分類し、検地をも規定している。『スルタンースレイマンーカヌーン-ナーメ』という名前をもって、以後数世紀の間、効力を保有したのがこの基本法典でされた。<三橋冨治男『オスマン帝国の成功とスレイマン大帝』p.31>

カーヌーンによるクルアーンの現実的解釈の例

 よく知られているように、イスラームの聖典クルアーンは利子(をとること)を固く禁じている。しかし、一方でイスラーム社会の慣行である宗教寄進制度であるワクフの枠組みの中では、現金ワクフ(現金を寄付しその利益をモスクやマドラサ建設や救貧事業に充てる)という実質的な金融制度が営まれてきた。本来のイスラーム法にのっとれば、現金ワクフは違法行為と見なされても仕方ないものであったが、オスマン帝国でもその慣習は深く根付いており、社会経済に重要な役割を果たしていた。
 スレイマン1世の時、現実とイスラーム的理念との矛盾を解決する必要に迫られたウラマーのエピュッスウードは、慣習にもとづいて、現金ワクフを合法化する判断を下した。もちろん、合法化に反対したウラマーも存在したが、『スルタン=スレイマン=カーヌーン=ナーメ』に入ったことで結局は現実的な運用が受け入れられていくこととなった。クルアーンの文言よりも現実を優先させるのが、オスマン帝国における「イスラーム」なのであった。<小笠原弘幸『オスマン帝国』p.148>