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タタール人

ロシアでは広くモンゴル人をタタールと言ったが、それとは別にヴォルガ中流域にいるトルコ系民族もタタール人という。クリミア半島にはクリミア・タタール人が定住した。

 「タタール」という語はいくつかの違った意味を持つ使い方がされるので注意すること。中国でモンゴル人の一部である韃靼を指す言葉にあてられたタタールと、ロシアでモンゴル人一般を意味するタタール、同じくロシアでトルコ系のタタール人を指す場合の3つの違いがある。

中国での韃靼人

 まず、中国ではモンゴル人の一部族である韃靼人をタタールと言っている。具体的には明代にモンゴル高原東部のモンゴル人(有名なダヤン=ハンやアルタン=ハンが出た部族)を指していた。これは西部のモンゴル人(その一部がオイラトで、エセン=ハンが率いた)と区別するために用いられていたが、本来は「タタル」という北方騎馬民を全体を意味する言葉が使われただけであり、東部モンゴル人がタタールと自称していたのではない。

西欧とロシアでの「タタール」

 西欧とロシアでの「タタール」という言葉には二つの意味がある。
モンゴル人全般を指す場合 ヨーロッパでは、モンゴル軍の侵攻を受けて強い恐怖に襲われ、モンゴル軍の部族にタタール(次に説明)がいたことから、ギリシア語のタルタロス(地獄)という言葉にかけて、モンゴル人を総体としてタタールまたはタルタルと呼ぶようになり、ロシアでもモンゴル人のキプチャク=ハン国によるロシア支配のことを「タタールのくびき」と言うようになった。<和田春樹『ロシア・ソ連』地域からの世界史11 1993 朝日新聞社刊 p.40>
トルコ系民族としてのタタール人 ところが、もう一つ、タタール人というトルコ系民族が存在するので注意を要する。彼らは、もともとはトルコ系の遊牧民ブルガール人の一部であったが、ヴォルガ中流域に定住するようになってヴォルガ=ブルガール王国という国家を形成し、商業活動を通じてイスラーム教徒となった。モンゴルの征服を受けてからはキプチャク=ハン国に服属していたが、やがてカザンを中心に自治を認められてカザン=ハン国を形成すると、彼らは征服者モンゴル人の一部族の名前であったタタールを自称するようになる。タタール人は周辺に広がって行き、ヴォルガ=タタールクリミア=タタールと言われるようになる。カザン=ハン国やクリム=ハン国はタタール人の国家であったが、ロシアのイヴァン4世(雷帝)以来、次々とロシアに征服され、ロシア化が進められた。現在はロシア連邦内のタタールスタン共和国となっているが、あくまでロシア内の自治領に止まり、主権国家としての独立は認められていない。現在も完全独立を求める運動がくすぶっている。

タタール人の民族的自覚

 ロマノフ朝のピョートル1世も厳しいロシア化、正教化をおしつけたが、啓蒙君主としてのエカチェリーナ2世はイスラーム信仰を容認する寛容策に転じ、タタール人の経済活動を保護したので、19世紀にはカザンの経済は復興し、タタール商人は中央アジア方面に盛んに進出するようになった。そのような中で、トルコ系民族であるタタール人としての自覚を軸としてイスラーム教の改革という文化運動も起こり、ガスプリンスキーによるジャディード(新方式による教育)の運動も起こった。
ヴォルガ=タタール ロシア革命によってヴォルガ=タタール人は1920年5月、タタール自治共和国を樹立するが、その指導者スルタンガリエフは次第に「民族共産主義」に傾いてロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央のスターリンらから反革命として弾圧されることとなる。<ロシアでのタタール人については、山内昌之『スルタンガリエフの夢』1986 岩波現代文庫再刊 2008 第1章による>
クリミア=タタール クリミア半島のタタール人はクリム=ハン国を作り、黒海での交易で繁栄し、オスマン帝国を宗主国としていたが、ロシアのエカチェリーナ2世は1783年に強制的に併合し、ロシア領とした。その後、クリミア半島はロシアの南下政策の拠点とされていく。クリミア=タタール人は先住民であったが、ロシア人の移住が増加したことで少数民族に転化していった。ロシア革命が起きると、1921年にロシア共和国内のクリミア自治共和国となってソ連を構成することになるが、第二次世界大戦では一時ドイツ軍に占領されると、スターリンは、クリミア・タタール人に対独協力の嫌疑をかけ、約19万人を中央アジアに強制移住させた。その移送途中や移送後に多数が死亡するという悲劇となった。クリミア半島はウクライナ共和国に編入され、スターリン批判後にはタタール人の多くはクリミアに帰ったが、少数民族としての状態が続いている。
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