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教会財産の国有化

フランス革命の初期、1897年11月に国民議会において議決された、カトリック教会の財産を国有とする決議。革命政府は没収した財産をもとに通貨アッシニアを発行。ついで1890年に聖職者民事基本法を制定し、教会への国家統制を強めた。

 1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃に始まったフランス革命は、続いて起こった農民暴動(大恐怖)を受けて、国民議会は8月4日に封建的特権の廃止を決定し、8月26日に人権宣言を採択して一気に高揚した。
 アンシャン=レジームにおいてフランスのカトリック教会はガリカニスム(国家教会主義)に立ってブルボン絶対王政を支えていたので、封建制度の打倒を叫ぶ民衆の行動は教会にも向かっていった。
 国民議会では教会財産の国有化の提案がタレーランによってなされ、1789年11月2日に可決された。没収した教会財産をもとにアッシニアを発行し、不足していた革命の推進に必要な財源に充てた。革命におけるカトリック教会に対する攻撃は、さらに1790年の聖職者民事基本法の制定によって強化され、教会は国家統制の下に置かれることとなった。

フランス革命のカトリック教会政策

 フランス革命は、キリスト教教会の存在とカトリック信仰そのものを否定したわけではないが、この教会財産の国有化は、それまで王権を支えていたカトリック教会の力を弱め、封建領主としての教会・修道院の基盤を奪い、国家が統制することによって、社会のあらゆる面を支配していたキリスト教的習俗を改め、自由や平等といった市民的理念の徹底を図ろうとした一連の政策の始まりだった。その完成をめざしたのが、1790年の聖職者民事基本法だった。
 ガリカニスムは、もともと世俗権力であるフランス王(ローマ教皇ではなく)が教会を保護・統制するという理念であったので、王権に代わり革命政権がその権利を引き継いだものであったが、聖職者の中には強く反発する者も多く、ローマ教皇も認めようとしなかった。以後、国内のカトリック教会擁護運動も根強く、国論を二分する対立点となって続くことになる。

タレイランの提案

 1789年8月4日に、聖職者たちは「大恐怖」におそれを感じ取り、貴族とともに封建的特権を自発的に放棄した。続いて十分の一税の無償廃止にも同意した。これは教会が自前で維持してきた、聖堂、学校、施療院、捨て子養育院、貧民救済などの諸事業の財源を喪失することを意味していた。9月末になると、フランス国庫の累積赤字を補填するためという理由で、教会が所有していた金銀製の聖器などを礼拝儀式に必要な物を除いてすべて供出することに同意している。
(引用)さらに十一月二日には、なんと修道院を含む全教会財産の国有化によって国庫の窮状を救おうという提案が可決されるまでにいたった。しかも、この法案の提案者はほかでもないオータンの司教タレイーラン、聖職者議員自身であった。およそ30億フランと見積もられたこの教会資産を担保に、抵当証券のような紙幣アッシニアが発行された。皮肉にも、教会は自らを告発する革命政権の台所を、以後10年間も支え続けることになったのである。<谷川稔『十字架と三色旗――近代フランスにおける政教分離』2015 岩波現代文庫 p.25-26>
POINT  ねらい  フランス革命はカトリック教会の持つ精神的・物質的影響力をなくすることねらった。人権宣言や聖職者民事基本法で市民的理念と法治主義の徹底をはかると共に、教会のもつ莫大な資産である土地や建物に目をつけ、これを国家財政の危機を救う一助に役立てようとした。国民議会で教会財産の国有化を提案したのは聖職者議員であったタレーランであるが、その根拠は、元来、教会の資産や土地は宗教的目的で寄進されたもので、僧侶の私有物ではなということであった。<河野健二編『資料フランス革命』1989 岩波書店 p.111 資料タレイランの提言の解説による>