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聖職者民事基本法/聖職者の公務員化

1790年7月、フランス革命で国民議会が制定した、教会の国家管理を定めた法律。聖職者基本法ともいい、聖職者の公務員化をはかった。司教・司祭などの聖職者に対し同法への宣誓を強要したので、反発も多かった。革命政権と教会・ローマ教皇との対立が続いたが、1801年、ナポレオンはコンコルダートでカトリックとの和解を試み、さらに王政復古によってこの法律などは廃止され、カトリック教会が復活する。

 フランス革命の初期の1790年に国民議会(立憲議会)で可決された法律で、聖職者を公務員化することで革命への従順を強制したもの。正確には聖職者民事基本法であるが、高校の世界史教科書・用語集・事典では「聖職者基本法」あるいは「聖職者市民法」、「僧侶基本法」、またはそのねらいから「聖職者の公務員化」などとされている。

フランス革命の教会政策

 フランスにおけるカトリック教会は、ブルボン朝絶対王政のもとでガリカニスム(国家教会主義)が確立し、ローマ教皇と直接結びつくのではなく、世俗のフランス王権に従う体制となってアンシャン=レジームの民衆統治に一役買っていた。
 フランス革命が勃発し、全国に大恐怖と言われる農民暴動が広がる中、国民議会は8月4日に封建的特権の廃止を宣言、貴族と共に封建領主であった教会・修道院は十分の一税の廃止に同意した。8月26日に出された人権宣言では、第10条で宗教的寛容が謳われ、聖職者の特権身分としての権威は否定された。
 カトリック教会に対する具体的な措置はまず、1789年11月に国民議会教会財産の国有化を打ち出し、そこで得られた国有財産を担保とするアッシニアを発行した。その際、修道院の修道僧には離脱する自由を与え、一般の聖職者は国家公務員として俸給をあたえる方策が打ち出された。

聖職者民事基本法の内容

 1790年7月12日、国民議会は聖職者民事基本法を定めた。その要点は、聖職者の任命は選挙によること、教会組織は行政区画に従うこと、特殊な聖職者団体は廃止することなどであるが、条文に沿って見ていこう。
  • 聖職者の職務
    • 各県はただひとつの司教区を構成すること。教区を統合再編し、世俗の行政区(市町村のコミューン)に合わせた。
    • フランスのすべての教会、教区、市民は、国外の権力の任命で擁立された司教、大司教らの権威を認めない。
    • 基本法に定められた以外の聖職録、特別職はいかなる性格のものであれ、廃止される。
  • 聖職者の任用
    • 司教および司祭の任用は、選挙によってのみ行われる。(教区の俗人である一定の租税を納めた有産市民が選出する)
    • 司教の選挙は県議会議員選出の形式と選挙母体によって行われる。
    • 司教に選ばれるためには、少なくとも15年間、その司教区で聖職者としての職務を果たさなければならない。
    • 新司教は教皇にいっさい堅信礼を求めてはならない。
    • 選ばれた者は叙任式において、国民や法や国王に忠実であること、国民議会で起草され国王によって承認された憲法を遵守することを宣誓する者とする。(これによって聖職者は国家公務員と位置づけられる)
  • 聖職者の報酬
    • 宗教の代理人は社会の最も重要な機能を担い、民衆の信頼を受けた任地に常住しなければならない。それゆえ彼らは国家によって扶養される。
  • 居住法
    • 司教、司祭、助祭は、年に15日以上、任地を離れることはできない。(従来の司教は任地に住まわずヴェルサイユやパリに居を構え、任地は代理にまかせるという悪習があった)
(引用)このようにして、教会の管理は全体として各地方行政当局にゆだねられることになった。要するに、聖職者民事基本法とは、宗教的秩序を新しい市民的秩序にもとづいて再編しようという試みであり、いわばガリカニスムの論理的帰結であった。じじつ、この法の基本的条項はそのままナポレオンの政教協約(コンコルダート)(1801年)に引き継がれている。<谷川稔『十字架と三色旗――近代フランスにおける政教分離』2015 岩波現代文庫 p.32>

宣誓をめぐる対立

 さらに聖職者民事基本法は、国民議会で採択された1791年憲法の中に取り入れられた。こうしてフランスのすべての聖職者にたいして、憲法及び聖職者民事基本法を守る誓約が求めることになったが、それに対してローマ教皇は世俗の権力である国家が、聖職者を統制することに強く反発して、基本法を非難する親書を発表した。これによってフランスの聖職者は、宣誓する聖職者(宣誓僧)と、それを拒否する聖職者(忌避僧)に分裂し、聖職者間の陰惨な対立が始まった。
 両者の対立には地域的に異なっており、パリを中心とした都市部の多いフランス中央部では民衆は宣誓を拒否する聖職者を襲撃するなど革命政府の方針を支持し、農村部で教会の司祭への信頼が強かった地域では、政府の指示に反して宣誓を拒否する聖職者が多かった。このような聖職者の宣誓をめぐって、フランス各地で複雑で血なまぐさい衝突事件が相次いだ。

宣誓をめぐる革命と反革命

 国民議会は1792年8月26日には宣誓拒否僧が二週間以内に国外退去しない場合、南米のギアナに流刑にすることを布告した。これによって約3万2千人の僧が国外に去ったと言われている。パリ民衆の中ではプロイセンなどとの対外革命戦争が窮地に陥ると、国内の反革命狩りをさけぶ声がわきおこり、「9月虐殺」という宣誓拒否僧たちが一般の就任たちと共に虐殺されるテロ事件も起きた。1793年3月にフランス西部で起こった農民の反革命暴動ヴァンデーの反乱では、宣誓僧が襲撃されて殺された。革命運動が進行した地域では、宣誓を拒否する聖職者は反革命と見なされ、聖職そのものを放棄するよう強制される「聖職放棄」運動が起こった。聖職放棄にはしばしば妻帯の強制が伴った。カトリックでは聖職者は妻帯できないことになっていたので、妻帯することで非キリスト教化を支持したと見なされた。

POINT  フランス革命の教会対策  聖職者民事基本法は、1789年の「教会財産の国有化」とともに、革命政権によるカトリック教会に対する統制強化策のひとつである。その前提としてフランスのカトリック教会がブルボン絶対王政をささせるガリカニスム(国家教会主義)をとっていたことを理解しておく必要がある。また、革命が進行する過程でカトリック信仰に代わる理性の崇拝が強制されたこと、革命を終わらせたナポレオンはカトリック教会と和解しようとしてコンコルダートを結んだこと、復古王政ではカトリック教会が復権することなどの流れと、最終的に近代フランスが政教分離をかかげることとなった一連の経緯として理解しよう。