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ガリカニスム

フランスのカトリック教会はローマ教皇から分離し、王権が教会に優先すべきであるという、国家教会主義の思想。16~17世紀、ブルボン朝絶対王政を支える理念となったが、18世紀に市民階級の成長、王権の動揺と共にゆらぎ、フランス革命では教会の国家統制が強められた。しかし次第に国家と宗教を分離する傾向が強まり、1905年の政教分離法制定でガリカニスムは消滅した。

 ガリカニスム Gallicanisme(フランス語) とはフランスの国家教会主義(教会自立主義ともいう)のこと。フランスはローマ時代にガリア Gallia といわれていたことから、フランスの教会のことをガリカン教会といい、その独立を主張する意味なのでガリカニスム(ガリカン主義)という言葉が生まれた。フランスはカトリック教会信仰が優勢であったが、同時にカトリック信仰の枠の中で教会はローマ教皇からは独立すべきであるという思想が、フィリップ4世の時の1303年のアナーニ事件のころから盛んになってきた。さらに教皇のバビロン捕囚教会大分裂が続き、教皇権の衰退が進む中で、強まっていった。
 百年戦争末期のシャルル7世は、1438年に「ブルジュの国事詔書」を出して、高位聖職者の選挙制を復活し、その際の国王による介入を認めた。これは聖俗の封建諸侯に対する王権の優位が認められた事例の一つでもある。つまり、王権の優越とは、聖職者(司祭などの僧侶)任命権を世俗の主権者である国王が持つ、ということである。

フランスの国家教会主義

 さらに主権国家が形成される16世紀には、カトリック教会側にあっても、国家の統一王権と教皇権は並び立たないとする考え方がうまれてきた。教皇権の衰退の結果として出てきた思想である。1516年、フランソワ1世はレオ10世との「ボローニャの政教協約」で、国王は大司教・司教・大僧院長の指名権を持つことをローマ教皇に承認させた。これが、フランスの国家教会主義(ガリカニスム)の完成と言うことができる。16世紀末に成立したブルボン朝は、ガリカニスムをその絶対王政を支える支柱とし、17世紀にその全盛期を迎えた。フランス革命前のアンシャン=レジームの時代の教会・修道院は王権を支えると同時に、農民から十分の一税を徴集するなどさまざまな封建領主としての特権を有する支配階級であった。 
ルイ14世とガリカニスム 17世紀後半から18世紀初頭のルイ14世も、一時は司教の任免問題でローマ教皇と対立し、王権神授説を説いた神学者ボシュエがガリカニスムの立場から教皇の優越を否定し、国王を支持した。しかし、一方では対外戦争を有利にするためにローマ教皇と妥協することもあった。またルイ14世ナントの王令を廃止するなどプロテスタントに対する迫害と強めたり、ジャンセニズム(オランダの神学者ヤンセンが説いた、神の恩寵を得るためには厳格な信仰が必要とする教派で、パリのポール=ロワイヤル修道院を拠点にかなりの信者を得ていた)を弾圧するなどカトリックよりの宗教政策を採ったので、時にローマ教皇とは妥協的であった。それに対して伝統的にローマ教皇の介入を拒否すべきであるというガリカニスムを支持する高等法院が国王と対立することもあった。

絶対王政を支えたガリカニスム

フランス社会での教会
(引用)カトリックはフランスの国教であった。大革命以前、とくに17世紀後半から18世紀にかけてのフランス社会では、大多数の人びとにとって、望むと望まざるとにかかわらず、カトリック教会の中で生まれ、育ち、娶り(嫁ぎ)、そして死を迎えることになっていた。人びとは人生の節目ごとに、洗礼、初聖体拝領、堅信礼、婚姻、終油といったカトリックの秘蹟を施され、それらのデータは教区簿冊に克明に記録された。当時は世俗の地方行政システムがまだ確立していなかったので、今日における役所の役割を担っていたのは、全国に網の目のように張りめぐらされていたカトリック教会の教区組織であり、それを管轄する司祭であった。<谷川稔『十字架と三色旗――近代フランスにおける政教分離』2015 岩波現代文庫 p.20>
 このようにフランスのカトリック教会は、ヴァチカンと相対的に自立し、国家の教会という性格が強く、歴史上、これをガリカニスム(フランス国家教会主義)とよんでいる。いわば、教会は絶対王政の行政機構に組み込まれ、民衆に最も近い末端でそれを支える存在であった。教会は行政組織の末端であっただけでなく、施療院や捨て子養育院の経営、貧民救済事業などの社会福祉事業、さらに最も重要な役割として教育機関でもあった。イエズス会やオラトリオ会などの修道会がコレージュを経営し、エリート教育を担っていただけでなく、各教区ごとに「小さな学校」(プチト・ゼコール)が置かれ、民衆の子弟に初歩的な読み・書き・計算が教えられていた。教会は成人の日常生活にも深く関わり、司祭は教区民の良き助言者であると同時に、告解や日曜ごとのミサを通じて彼らの生活規範を事細かに点検し、道徳統制者の役割も果たした。<谷川『前掲書』p.21-22>

参考 イギリス・ドイツとの違い

 フランスのガリカニスムを考える際、お隣イギリスの国教会との違い、あるいはドイツの領邦教会制との違いを押さえておく必要がある。ガリカニスムそれ自体は高校世界史では出てこない用語であるので入試で問われることはないが、例えば、近世のイギリス・フランス・ドイツのそれぞれの教会制度の違い(ローマ教皇権との関係)を説明せよ、という質問はありえる。答えのポイントは、イギリスは国教会制度によって国王が教会の首長を兼ねる、ドイツは領邦教会制度で諸侯が領内の教会保護統制権を持つ、と言うのに対して、フランスの教会はローマ教皇から自立しながら国王の保護・統制を受ける、と言ったところであろう。さらにフランスの国王はあくまで世俗の権力であり(イギリスと違って)教会の首長ではない、と付け加えても良いだろう。

政教分離への流れ

 フランスの「政教分離」の歴史的背景については、近年、注目されているので、世界史論述対策でも十分注意しておく必要がある。その後、ガリカニスムはフランス革命での教会財産の国有化聖職者民事基本法による聖職者の公務員化、ナポレオンのコンコルダート、王政復古期のカトリック教会の復権、などを通じて変質していきながら、第三共和政で政教分離が進み、終わりを迎える。

ガリカニスムの終焉 政教分離法

 フランス第三共和制で続いたカトリック教会への波状攻撃の総仕上げが1905年12月の政教分離法であった。政教分離法のポイントは次の二点である。
  • 国家・県・自治体はいっさいの宗教予算を支出せず、信仰を私的領域のもとに限定する(聖職者の政治活動は禁止され、宗教的祭儀の公的性格はいっさい剥奪される)。
  • 教会財産の管理や組織の運営は、信徒会に委ねられる。
 これによって、19世紀の政教関係を規定していたナポレオンのコンコルダート(1801年)が破棄され、16世紀以来のガリカニスムが最終的に解体されることになった。ただし、この変革は必ずしも国家の教会に対する一方的な勝利を意味するわけではなかった。聖職者は公共の庇護を失うかわりに、ながらく国家に掌握されていた司教の任免権を回復し、信徒会も直接ローマにつながることも可能になった。
 また、カトリック教会側はこのなかの教会財産の管理運営を信徒会に委ねる点に強く反対した。ローマ教皇ピウス10世が同法を略奪法と非難したことで、1906年には教会財産を信徒会に委譲するための官憲による立ち入りが始まると、各地の教会でバリケードを築いてそれを拒否するという衝突が相次ぎ、結局規定は骨抜きにされた。しかしながら、政教分離法という枠組みができたことで、フランス革命期から1世紀以上におよんだ、共和派とカトリックとの文化統合をめぐるヘゲモニー争いに、一応の決着をつけ、この「ライシテ=非宗教性」という国家原理は、ヴィシー政権を唯一の例外として、現在までフランス共和国の法的枠組みとなっている。<谷川『前掲書』p.235-236>