印刷 | 通常画面に戻る |

普墺戦争/プロイセン=オーストリア戦争

1866年、プロイセン(普)とオーストリア(墺)の戦争。プロイセンが勝利し、ドイツ統一の主導権を握る。敗れたオーストリアはドイツ統一から除外され、ハンガリーとの二重帝国となる。

 1866年6月に起こったプロイセン王国オーストリアの戦争。プロイセン=オーストリア戦争とも表記する。
 同じドイツ人の国家、ドイツ語を使う国家であるプロイセンとオーストリアは、ドイツ連邦を構成していたが、1848年にドイツ統一問題が表面化して以来、その主導権を巡って対立していた。1864年のデンマーク戦争では共同歩調をとったが、戦後のシュレスヴィヒ・ホルシュタインの処分問題から始まった両者の対立から、プロイセンの宰相ビスマルクが巧みにオーストリアのフランツ=ヨーゼフ1世を挑発して戦争に持ち込んだ。
 モルトケの指揮するプロイセン軍が1866年7月3日のケーニッヒグレーツの戦いで圧勝、「7週間戦争」と言われるような短期間で終結した。その結果、プロイセンはシュレスヴィヒ・ホルシュタインその他を併合し、オーストリアはドイツ統一の主導権を失い、ドイツはプロイセンの「小ドイツ主義」によって統一されることになる。オーストリアは敗戦後、ハンガリーを独立させ、二重帝国であるオーストリア=ハンガリー帝国となる。

Episode 銃と動員力の勝利

(引用)1866年6月21日、プロイセン軍はボヘミアとの国境を越えた。ヘルムート=モルトケの指揮の下、プロイセン軍はケーニッヒスグレーツ(サドヴァ)に進出した。戦いの経験は不十分であったが、プロイセン軍は一分間に7発撃てる撃針をもった銃を装備していたのに対して、オーストリア軍の銃は一分間に二発しか撃てない旧式のものであった。さらにモルトケは、鉄道を使って迅速に軍隊を移動させ、電信を使用して三方に分かれた軍を正確に指揮した。これに対してオーストリアは多民族国家であったため、軍隊の動員はそれぞれの兵の故郷では行えなかった。さもないと、多民族国家のため、戦うどころか自分の民族の中に溶け込んでしまう危険性がったからである。動員に時間がかかってしまった。・・・<阿部謹也『物語ドイツの歴史』1998 中公新書 p.213-214>

ドイツ連邦の解体と北ドイツ連邦の結成

 1866年の普墺戦争の講和条約であるプラハ条約で、1815年のウィーン議定書で成立し、形の上で続いていた全ドイツの連邦であるドイツ連邦(オーストリアも含んでいた)の解体が決まった。また、プロイセンはハノーファー、ヘッセン=カッセル、ナッサウ、フランクフルトを獲得し、領土を北ドイツ全域に広げた。翌1867年、解体したドイツ連邦に代わり、プロイセンを中心に、マイン川以北の22カ国との君主連合である北ドイツ連邦が結成された。これが次のドイツ帝国の前提となる。

オーストリアの変質

 敗れたオーストリアフランツ=ヨーゼフ1世は、翌1867年、ハンガリーを王国として名目的独立を認めるアウスグライヒ(妥協の意味)を結び、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる同君連合として、オーストリア=ハンガリー帝国となった。
ヴェネツィアの放棄 また普墺戦争ではプロイセンを支援したイタリア王国とも戦った。伊トリアは1861年にトリノを都に成立していたが、まだローマとヴェネツィアなどは含まれていなかった。オーストリアに支配されていたヴェネツィアではイタリアへの併合を求める動きが強まっていた。そこでビスマルクはイタリア王国と秘密条約を締結して味方に引き入れた。普墺戦争の北イタリア戦線ではオーストリアは優位な戦いをしたが、プロイセン軍とのケーニッヒグレーツの戦いで大敗したため、イタリアに対してもヴェネツィア併合を認めざるを得なかった。こうして、北イタリアもオーストリアの支配から脱しイタリア統一(リソルジメント)は終局に近づいた。

ルクセンブルク問題

 普墺戦争でプロイセンが勝利し、ドイツ連邦が解体したことは、新たなフランスとの火種となった。それはドイツ連邦に加盟していたルクセンブルク大公国に関してであった。ルクセンブルクは14世紀以来のルクセンブルク家領であり、ルクセンブルク家は一時神聖ローマ皇帝を出すほど有力であったが、15世紀以降は衰退し、ウィーン会議でオランダ国王を大公とする大公国としてドイツ連邦に加わっていた。その地を狙っていたフランスのナポレオン3世は、ドイツ連邦が解体したことをうけてルクセンブルクの買収をはかったが、プロイセンが反発し、普仏間の問題となった。1867年にロンドン会議で交渉が行われた結果、双方が手を引き、ルクセンブルクは永世中立国として存続することとなった。 → ルクセンブルク

「兄弟戦争」の四つの結果

POINT このプロイセンとオーストリアというドイツ人同士の、いわば「兄弟戦争」は、次の四つの重要な結果をもたらした。
  1. プロイセンの強力な拡張が行われた。ベルリンを中心としたドイツ東部から現在のポーランドにかけての本来のプロイセンに加え、ハノーファーなど西部にも領土を拡張、それまでのドイツ連邦の中心都市フランクフルトはその一地方としに過ぎなくなった。
  2. 北ドイツ連邦の成立。 オーストリアを含んでいたドイツ連邦が解体され、オーストリアを含まない北ドイツ連邦が成立した。これは後のドイツ帝国の基礎となるもので、連邦議会・連邦宰相・連邦軍などはいずれもドイツ帝国に継承される。またプロイセンの圧倒的優位もそのままであった。
  3. 南ドイツの4主権国家の従属。 南ドイツのバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン=ダルムシュタットは攻守同盟と関税同盟によってプロイセンと結びつけられた。
  4. オーストリア帝国の解体。 オーストリア帝国はドイツ国家との結びつきを失い、同時にオーストリア=ハンガリー二重帝国へと大転換を遂げた。
<セバスティアン・ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』1989 平凡社 p.36-37>
※上の4点はドイツ国家にとって重要事項である。世界史的にはこれに加えて
  1. イタリアのヴェネツィア併合 長かったオーストリアによる北イタリア支配が終わり、イタリア王国がヴェネツィアを併合した。
  2. 普仏戦争への前提 ビスマルクのプロイセンが実質的にドイツ統一の主導権を握った結果、次ぎにナポレオン3世とのヨーロッパの覇権をめぐる争いにステージが変わる。わずか4年後に普仏戦争が始まる。
の2点も押さえておく必要がある。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

阿部謹也
『物語ドイツの歴史』
1998 中公新書

セバスティアン・ハフナー
山田義顕訳
『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』
1989 平凡社