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国防政府/臨時政府(普仏戦争後のフランス)

1870年、普仏戦争の敗北でフランス第二帝政が崩壊した後に成立した応急的な政府。ティエールが首相としてプロイセンへの降服を決定し、反対するパリ=コミューンを弾圧した。

 1870年9月2日、普仏戦争スダンの戦いナポレオン3世プロイセンに敗れて捕虜となったことを受け、4日にパリの民衆が蜂起して共和政を宣言し、第二帝政政府は崩壊した。ここから、1875年に第三共和政憲法が成立まで、国防政府の時期と次の臨時政府の時期が続いた。

国防政府

 1870年9月のスダンの戦いでのナポレオン3世敗北の報を受け、パリで市民が蜂起し、共和政を宣言した。当面の政府機構としてパリ軍事総督のトロシュ将軍を首班とする国防政府(国防仮政府、臨時国防政府、国民防衛政府などとも言われる)が組織された。政府の主力は穏健共和派であったが、急進共和派のガンベッタが内相として参加し、徹底抗戦を主張した。プロイセン軍は進撃を続け、9月14日以降はパリは包囲状態となった。パリ市民は、今や危機にある祖国を救うためには全面的に戦うべきであるとして、労働者・社会主義者を含めて立ち上がり、国民軍に参加した。しかし、この状勢を見た国防政府は、市民・労働者が主導権を握ることを恐れてプロイセンとの講和を急ぐようになった。そのような国防政府にパリ市民は不審を抱き、10月に国民軍とともに蜂起したが政府軍に鎮圧された。この間もプロイセンはパリ包囲の輪を縮め、国防政府で徹底抗戦を主張していた内相ガンベッタは気球を使ってパリを脱出し、南フランスに拠点を作ろうとした。
 1871年1月、プロイセン軍はパリ砲撃を開始、パリ市内は食糧が不足し、市民は「ネズミのパイ」で飢えを凌いだという。1871年1月18日、プロイセン軍は占領下のヴェルサイユ宮殿鏡の間でヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を挙行した。講和を急ぐ国防政府は1月28日、ヴェルサイユで休戦条約を結んで休戦した。その条約の規定により、講和条件を審議するための国民議会選挙が行われた結果、厭戦気分の拡がる中、地主やブルジョアの支持する王党派が圧勝した。農民票も王党派に流れ、急進共和派や社会主義派は都市部で少数選出されるにとどまった。

ティエールの臨時政府

 2月12日、ボルドーで国民議会が召集され、ティエールが行政長官に選ばれた。これ以降を臨時政府という。ティエール自身はオルレアン派(穏和な立憲君主派)であったが、王党派と共和派の対立を避けるため、政体の決定は平和の回復後に決めるという「ボルドー協約」を議会に承認させ、当面のドイツ帝国との講和を急ぎ、2月26日、ヴェルサイユ仮講和条約を締結し、50億の賠償金の支払いと、アルザス・ロレーヌの割譲を受諾した。

パリ=コミューンを弾圧

 3月1日、ドイツ軍は講和条約に基づいてパリ入城。人影のないシャンゼリゼを行進した。臨時政府は、パリの徹底抗戦を主張する市民を抑えるため、国民軍に対し武装解除を命じた。3月18日、国民軍の武装解除に向かった政府軍に対して、民衆はバリケードを築き、実力でそれを阻止、政府軍の一部も加わって、指揮官を銃殺、1871年3月28日にパリ=コミューン成立を宣言、革命が始まった。ティエール政府は4月に反撃を開始、コミューン側は激しく抵抗したが、5月21日にパリ突入、壮絶な市街戦「血の週間」の戦いの結果、5月28日までにパリ=コミューンを鎮圧した。その後もティエール政府は、「法と正義」の秩序を回復すると称して、反政府とみなした市民に対する弾圧を続けた。
 この間、ティエールは5月10日、ドイツとの間でフランクフルト講和条約を締結し、仮講和条約の内容が正式に決定した。

ティエール大統領に就任

 1871年8月、ティエールはボルドーの議会から大統領に選出され、臨時政府は終わった(第三共和政の初代大統領とされているが、これも仮大統領のようなものだった)が、なおも政体については留保されたまま、ティエールはパリ=コミューンでの社会主義者の決起を見て、彼らの運動を抑えるためには、共和政体をとってその要求を受け容れながら、ブルジョワの権益を守るという穏和な共和政しかない、と考えるにいたった。

ティエールの失脚

 そして議会はいよいよフランスをどのような政体にするか決定を迫られた。議会内の王党派はティエールが共和政に傾斜したことを察知して、その除外に動いた。1873年3月、賠償金の支払いとドイツ軍の撤退についての合意が成立した後、議会は王党派、オルレアン派(立憲君主派)が結束してティエールを罷免し、代わって大統領にはパリ=コミューン鎮圧に功のあった王党派のマクマオン将軍を選んだ。

第三共和政憲法の制定まで

 マクマオン大統領ら王党派は大統領制から王政への転換をねらった。しかし、保守派は絶対王政の復活を目指す王党派と、かつての七月王政のような立憲君主政を良しとするオルレアン派の足並みがそろわず、分裂していた。そのため、政体についての議論は延々と続けられたが決着がつかず、ようやく1875年1月に第三共和政憲法が成立して第三共和政の形が出来上がった。
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