ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世
サルデーニャ王国の国王であったが、首相カヴールを登用、イタリア統一戦争を進め、北・中部イタリアの併合を進める。1861年、ガルバルディの征服したシチリア・南イタリアを併せ、ほぼイタリア統一に成功、初代のイタリア国王となる。
Vittorio-Emanuele Ⅱ
1820-1878
カヴールを登用
サルデーニャ王国は首相カヴールの巧みな外交手腕によって1858年にフランスのナポレオン3世とプロンビエール密約を結んで同盟し、その上で、1859年4月にオーストトリアに宣戦布告し、イタリアに支配されていたロンバルディア・ヴェネツィアを併合をめざした。このイタリア統一戦争は、フランスのナポレオン3世が途中で単独で講和したため、ロンバルディアの併合だけで終わった。フランスとの関係は悪化したが、いったん首相を退いたカヴールを復帰させ、関係を回復させ、1860年3月には、中部イタリアをサルデーニャ王国に併合し、そのかわりサヴォイアとニースをフランスに帰属させることをそれぞれ住民投票で決定した。ガリバルディと会見
ガリバルディが占領したシチリア島・ナポリでは住民投票でヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を国王とする統一国家への併合を可決したのを受け、国王は軍を率いて南下し、1860年10月25日、ナポリ北方のテアーノでガリバルディと会見、ガリバルディが統治権を国王に献上して統一がほぼ達成された。初代イタリア国王
翌1861年、イタリア王国の初代国王として議会の承認を受け、トリノで即位した。本来なら、新しいイタリア王国が発足したので、ヴィットーリオ=エマヌエーレ1世と称すべきであるが、彼はそのまま「2世」という王号を続けた。それは新しい王国であってもサルデーニャ王国を継承する国家であることを強く意識したからであった。憲法も1848年に制定されたサルデーニャ憲法がそのまま用いられた。
イタリア統一の完成
国王在任中、1866年には普墺戦争でプロイセンを支援した見返りとしてオーストリアからヴェネツィアを併合し、さらに1870年に普仏戦争がおこったことを契機にローマに進撃し、1870年9月、ローマ教皇領の併合に成功した。翌1871年7月、都をローマに移し、ヴィットリオ=エマヌエレ2世もイタリア王としてローマに入った。なお、サヴォイア家のイタリア王位はその後も存続するが、立憲君主政をとり、国王は実権を失っていった。ムッソリーニのファシズム国家でも国家的な権威として存在したが、第二次世界大戦後の1946年に国民投票で王政廃止となり、イタリア共和国となった。