トリノ
イタリアのピエモンテ地方の中心都市でサルデーニャ王国の都で有った。1861年にイタリア王国が成立するとその最初の首都となる。1865年、首都はフィレンツェへ、さらに1871年にはローマに移る。
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カルボナリの蜂起
ピエモンテ地方はフランスと接しているので、フランス革命・ナポレオン時代にその影響を強く受けた。サルデーニャ王国はウィーン体制時代にはフランスに備える勢力の一つとしてメッテルニヒに期待され、国王ヴィットリオ=エマヌエーレ1世も保守反動姿勢を強め、自由主義や民族主義運動に対する弾圧を強めていた。それに対して、自由主義や立憲主義を掲げる秘密結社カルボナリがピエモンテでも生まれ、彼らは1820年のナポリに続き、1821年3月にトリノの東の都市アレッサンドリアで蜂起した。これはピエモンテ蜂起、あるいはピエモンテ革命と言われている。この段階ではサルデーニャ王国の改革運動は、カルボナリなどの急進派と、穏健な自由主義者に分裂しており、首都トリノは穏健派の貴族に抑えられ、動かなかった。しかし、3月に急進派がクーデタを決行、国王ヴィットリオ=エマヌエーレ1世は退位、新国王カルロ=フェリーチェが即位し、改革派とみられていたカルロ=アルベルトが摂政となった。新国王は前年のスペイン立憲革命で復活した民主的なカディス憲法と同じ内容の憲法の制定を認めた。
カルボナリの蜂起は明確な革新プランがなく、幅広い民衆の支持もなかった。新国王も一旦は憲法を認めたものの、次第に改革を否定するようになった。また自由主義改革を許さない姿勢を強めたメッテルニヒは、前年のナポリと同じように、ピエモンテにもオーストリア軍を派遣したため、カルボナリなどの改革派の蜂起は鎮圧されてしまった。蜂起を指導した騎兵将校サントッレ=ディ=サンタローザは亡命し、蜂起に加わった自由主義者97人はオーストリア軍によって処刑された。サンタローザは後にギリシア独立戦争に加わり、戦死した。
イタリア王国の最初の都となる
1848年には、サルデーニャ王国の国王カルロ=アルベルトは、改革派に押されてロンバルディア・ヴェネティアの解放を目指しオーストリアに対して開戦(第一次イタリア=オーストリア戦争)し敗れたが、次のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世には首相カヴールによるイタリア統一戦争が開始された。このイタリア統一運動は、サルデーニャ王国を軸に進んだが、一方で青年イタリアの流れをくむガリバルディがシチリア、南イタリアを征服し、その地をサルデーニャ国王に献上するという形となったため、1861年3月にイタリア王国が成立し、トリノはその首都ともなった(1865年まで)。
なお、隣接するサヴォイアとニースはイタリア領であったが、1860年に住民投票でフランスに併合した。その代償として、中部イタリアのトスカーナとロマーニャなどで住民投票によってイタリアに併合することをフランスに認めさせた。イタリア王国の重点は次第に半島中部に移って行き、1865年からトリノはその首都の地位を、トスカーナ地方のフィレンツェに譲った。さらにイタリア王国はローマ教皇領を併合した後、1871年にローマを首都とすることとなる。
現在では自動車工業など代表的なイタリアの工業都市として発展、2006年には冬季オリンピックが開催され、女子のフィギアスケートで日本の荒川静香選手がイナバウアーを決めて優勝した。