サルデーニャ島
地中海の中央部に位置する島で、ローマ、ビザンツ帝国、イスラーム勢力など支配が交替。アラゴン王国・スペイン王国の支配に次いでオーストリア領となったあと、サヴォイア家が統治するサルデーニヤ王国の一部となった。現在はイタリア領。
コルシカ島とサルデーニャ島 YahooMap
イスラーム勢力の進出
ローマ帝国衰退後はゲルマン民族の一派、ヴァンダルや東ゴートの侵攻を受け、6世紀にはビザンツ帝国領となったが、7世紀にアラビア半島に登場したイスラーム教勢力は、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを脅かしながら北アフリカに進出し、早くも711年にウマイヤ朝はイベリア半島に侵入して西ゴート王国を滅ぼした。さらに827年にはアッバース朝の宗主権下にあったチュニジアのアグラブ朝がシチリア島に侵入した。サルデーニャ島はその占領は免れたが、ビザンツの勢力は後退し、代わってイタリアの都市共和国ピサやジェノヴァ、スペインのアラゴン王国などが進出してきた。11世紀初めにはイスラーム勢力を撃退したピサ市がサルデーニャを支配することとなった、ついでジェノヴァもこの島の支配を目指し、その他の地中海周辺の諸勢力も加えて、この島を巡る抗争が続いた。アラゴンとスペインの支配
14世紀以降はスペインのアラゴン王国が支配し、その後アラゴンとカステーリャが合同してスペイン王国が成立するとその領土となった。1571年のレパントの海戦でスペインなどキリスト教国の連合海軍がはじめてオスマン海軍を破ったが、サルデーニャ島の水夫が活躍した。1701年にスペイン継承戦争が起こって、14年までにフランス・スペインが敗れたため、フランスとオーストリア間のラシュタット条約でサルデーニャはオーストリア=ハプスブルク家が領有することとなった。
サルデーニャ王国
1720年、北イタリアのサヴォイア公国は当時支配していたシチリア島(1713年のユトレヒト条約で獲得)と交換でサルデーニャを手に入れ、サルデーニャ王位を認められた。こうして北イタリアのフランスに接しているピエモンテ地方とサルデーニャ島を支配するサルデーニャ王国(都は本土のトリノ)が成立した。1796年以来、ナポレオンはイタリア遠征をくりかえし、オーストリア支配を排除したが、そのさいピエモンテ地方も占領したのでサルデーニャ王国はサルデーニャ島のみを支配することとなった。ナポレオン没落後、サルデーニャ王国はピエモンテとサルデーニャ島の支配を回復した。他の北イタリア地方にはオーストリアの支配が再び及んできたが、サルデーニャ王国は自立の姿勢を堅持し、イタリアの統一の気運が高まると、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世のもとでそれを推進する母体となり、宰相カヴールが活躍、1861年にイタリア王国を成立させることとなる。
なお、イタリア統一の過程で活躍したニース出身のガリバルディは晩年、サルデーニャの北の小島カプレーラ島を購入し、隠棲している。