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バクーニン

19世紀、アナーキズムの思想家であり活動家。ロシア出身だがヨーロッパ各地で活動、1848年ドイツの三月革命にかかわり、シベリア流刑となる。第1インターナショナルに加わったがマルクスを厳しく批判、パリ=コミューンをめぐって対立を深め、1872年に除名された。

 バクーニン(1814~1876)はロシアの貴族の家に生まれ、砲兵学校に学んだエリートであったが、ベルリンでドイツ哲学を学びながら社会の不正義に気づき、プルードンアナーキズム(無政府主義)の思想を知る。その後、マルクスを知り、1848年のドイツの三月革命に加わる。ロシア官憲に危険人物視されて捕らえられ、シベリア流刑となる。流刑地から脱出して函館・横浜を経てアメリカに渡り、アナーキズムの指導者の一人として知られるようになる。第1インターナショナルに1869年に参加したが、そこでマルクスの政治闘争重視、権威主義的運営に反発し、徹底した国家の否定と完全な個人の自由の実現を可能であると主張し、マルクスと対立した。1871年のパリ=コミューンの敗北により国際労働運動が厳しい状況を迎える中、両者の対立は決定的となり、1872年のインターナショナル・ハーグ大会でバクーニンとその同調者は除名された。バクーニンらは、その後も独自の大会を開催したが、76年にバクーニン自身が死去し、組織としては消滅した。
 バクーニンは、正統マルクス主義の歴史観では、第一インターナショナルを「乗っ取る陰謀」を企んだのであり、その無政府主義は非現実的、妄想的で、かえってブルジョワジーを利する危険な思想として非難されている。しかし、マルクス主義からボリシェヴィズムが派生し、それがスターリニズムに変質して本来の社会主義の理念から程遠いソ連型官僚国家に堕落しててしまって崩壊した現在、バクーニンの中央集権批判、権威主義批判、政治活動重視に対する批判などは「押しつけられた社会主義」の崩壊を予測したものと見ることができ、国家に依存しない、徹底した人間の自由を説くその主張は、21世紀の今こそ聞いてみる必要があると思われる。

バクーニンの思想と生涯

 ミハイル=バクーニン Mikhail Bakunin は1814年ロシアの現在のカリーニン市の地方貴族の子として生まれた(マルクスより4歳年上)。砲兵士官学校に入学したが、21歳の時、親の反対を押し切り軍役を退き、モスクワでベリンスキー、作家のツルゲーネフ、ゲルツェンらと知りあった。1840年、ベルリンに留学、ヘーゲル哲学などを学びながら、社会問題に深い関心を抱くようになった。43年、チューリヒに移り共産主義者ヴァイトリングの運動に協力したことが本国の当局に知られ、帰国命令が出されたが、それを拒否、欠席裁判によって貴族身分の剥奪、帰国したら捕らえてシベリア流刑と決まった。
プルードンを知る 次ぎにパリに移ったバクーニンはルイ=ブラン、マルクス、プルードンを知る。特にプルードンの『財産とは何か』には強い衝撃を受け、私有財産の否定と自由な共同による公正な社会の建設という無政府主義のプランを持つようになった。マルクスに対してはその学識は認めたが「大衆を支配、教育、組織しようとする権威主義的共産主義」の匂いをかぎつけ遠ざかるようになった。
シベリア流刑 1848年革命のさなか、プラハで開催されたスラヴ民族会議に出席、スラヴ民族解放の戦いに参加した。ベルリン三月革命の経過の中で、翌年5月のドレスデン蜂起が起きると、ドレスデンに潜行していたバクーニンはその市街戦を指導した。この時音楽家のヴァーグナー、画家のヴィルヘルム=ハイネなどが参加した。しかし蜂起は失敗して捕らえられ、ロシア政府に引き渡され、ペトロパブロフスク要塞に収監された後、1857年にシベリア流刑となった。流刑地のトムスクで18歳年下のポーランド女性と結婚した。
シベリア脱出、横浜へ さらにイルクーツクに移されたが、シベリア総督ムラヴィヨフが母方の親戚であったため厚遇され、1861年、すきを見て脱出、函館を経て横浜に着いた。さらに太平洋を渡ってアメリカを経由し、1863年にロンドンのゲルツェンのもとに身を寄せた。その年、ポーランドの反乱が起きると義勇兵としてポーランドに向かったが、途中でスウェーデン政府によって抑留され計画は失敗した。
イタリア統一戦争にかかわる 1864年、バクーニンはフィレンツェに赴き、ガリバルディマッツィーニイタリア統一戦争を支援した。彼はイタリアの解放とスラヴ民族の解放を(同じくオーストリアからの解放運動として)結びつけようと考えた。この後、ナポリでイタリアのアナーキストと接し、私有財産の否定・社会秩序の暴力的破壊・個人と共同体の絶対的自由といった考えを深めていった。

第一インターナショナルに加盟

 バクーニンは世界革命への国際連帯組織の必要を自覚し、初めはフリーメーソンなどにも接近したが、1867年にはジュネーブで平和自由連盟に参加した。しかし、翌年、国家と私的相続権の廃止を要求する決議案が否決されたため、同志とともに「国際社会民主同盟」を結成し、1864年に発足していた第1インターナショナルのジュネーヴ支部として加盟することを申請した。マルクスはこれはインターの中に第二インターを認めることになるので拒否、結局69年に同盟側が中央委員会と支部を廃止して直接加盟することとなった。
マルクスとの対立   1869年9月、バーゼルで開催された第1インターナショナルの第4回大会で、早くもバクーニンはマルクスと対立した。この大会でバクーニンが提案した「相続税の廃止」を要求する決議が採択されたことから、マルクスは危機感を抱き、秘密協議会を開催してバクーニン派がテロリストを含んでいることなどを理由に除名を図った。1872年のハーグ大会ではマルクス派が多数を占め、バクーニンとその同調者の除名処分が決定された。
無政府主義者として生涯を終える バクーニンとその支持者は、その後も独自の国際大会を開催し続けたが、1876年、バクーニンはスイスのベルンで腎臓病と心臓病のため、62歳で息を引き取った。<以上、主として『朝日百科世界の歴史108』リンカン、バクーニン、洪秀全ほかの外川継男執筆部分などを参照>

バクーニンの国家論

 バクーニンとマルクスの対立点は多岐にわたるが、決定的には国家観の相違と言うことが出来る。マルクス(およびそれを継承したレーニン)は、ブルジョワ階級の抑圧機関である国家は「廃止される」ものではなく、階級がなくなれば自然に「死滅する」のであり、階級なき社会への移行のための一時的手段として「プロレタリアートの独裁(国家)」が必要である、と考えた。それに対してバクーニンは、ブロレタリア独裁は「手段が目的化する」危険があり、いかなる権力も必然的に自らを維持しようと抑圧的になると説き、国家そのものの廃止を目指すべきだと主張した。<『朝日百科世界の歴史108』外川継男執筆部分>
 バクーニンが、1860~70年代にすでにマルクスのプロレタリアート独裁論を批判していたことは注目すべきであろう。堂々と「国家悪」を説くことは、今でも危険思想視されかねないが、なにやら戦前の「神国観」が復活しそうな現代の日本においても、国家を歴史的に相対化し、客観的にみる上でよい刺激となる。バクーニンの著作のすべてに目を通したわけではないが、彼の国家観を知る上で手がかりになりそうな一節が目についたの紹介しておこう。
(引用)私は躊躇なくこう言いたい。すなわち国家とは、悪である。ただし歴史的な必要悪である、と。国家の完全な消滅は、遅かれ早かれ将来必然的となると同様に、過去においてはその存在は必然であった。ちょうど、人間の原始的な動物性や神学的なたわごとが過去には必然であったように、国家もそうであったのだ。国家は、社会とけっして同一なのではない。それは、社会の抽象的な、同時に粗暴な、一つの歴史的形態にすぎないのだ。歴史上、国家は、いたるところで暴力と略奪と強奪、つまり一言で言えば戦争と征服とが、各民族の神学的幻想のなかからつぎつぎと産み出された神々と結びつくことによって、生まれたのだ。<バクーニン「神と国家」1871 世界の名著中公バックス版所収 p.255>
 バクーニンの著作は、中公バックス版「世界の名著」53 プルードン、バクーニン、クロポトキン(猪木正道、勝田吉太郎編)の中で読むことができる。第1インターナショナルの舞台で、マルクスの最大の論争相手となったバクーニンの言説にふれることはマルクスの理解にとっても必要なことである。
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書籍案内

『世界の名著53』
プルードン、バクーニン、クロポトキン
1980 中公バックス版

バクーニンの主著「神と国家」他を収録。その他、アナーキズムを知る上で主要な三人の著作が収められているので便利。

『週刊朝日百科 世界の歴史108』19世紀の世界2・人物 リンカン バクーニン 洪秀全ほか

外川継男のバクーニン小伝が参考になる。