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ティプー=スルタン

18世紀末、イギリスの植民地化に抵抗して戦ったマイソール王国の国王。父に続きマイソール戦でイギリス軍と戦い、フランス革命が起きるとジャコバン派やナポレオンとの提携も模索したが、1799年に敗死し、イギリスのインド支配が進行した。

ティプー=スルタン
ティプー=スルタン(1753-1799)
中央公論社『世界の歴史』14 p.270
 ティプー=スルタンは南インドのマイソール王国のハイダル=アリーの子。ハイダル=アリーの父はイスラーム教神秘主義のスーフィーであったらしく、北インドからマイソールに流れてきた。ハイダルは若くして孤児となったが、その才覚で軍人となり、イスラーム教徒ながらヒンドゥー教国マイソールの高官にまでなった。実権を握った彼はさらに国王位を簒奪し、スルタンと称した人物だった。当時マドラス(現チェンナイ)を拠点に南インドに進出してきたイギリス東インド会社の勢力に果敢に抵抗し、1767年からイギリス側がマイソール戦争と呼ぶ戦争を戦った。1780年の第二次マイソール戦争ではマドラスを陥落寸前まで追い込んだが、1782年にハイダル=アリーは死去し、その跡を継いだのがティプー=スルタンだった。 → イギリスのインド植民地拡大

対英戦争の国際戦略

 ティプー=スルタンは若い頃から敵国への人質になるなど苦労を重ね、マイソール国王となってからはイギリスとの戦争を継続しながら、それに対抗するためにはインドで分立している勢力の一致協力と、何よりも産業や経済、軍政の近代化が必要だと気がついていた。またイギリスを打倒するためには、広く国際政治を見ることも必要であると認識し、イスラーム世界の中心勢力であるオスマン帝国や、イギリスと対立しているフランスとの同盟を模索して使節を派遣している。しかし、オスマン帝国は北方からのロシアの脅威にさらされているため、イギリスと結ぶ必要があり、ティプー=スルタンの要請には応えなかった。またフランスのルイ16世は革命勃発直前で、その要請に応える余裕はなく、この外交プランはいずれも成果を上げることはできなかった。彼はその後もフランス革命後のジャコバン派ナポレオンとの提携も模索し、イギリスの侵略を阻止しようとした。しかし、マラーター王国などとの対立や国内のヒンドゥー教徒の反発を抱えていたため、最終的には敗れ、1799年に戦死した。

イギリスとの戦い

 国際的な孤立、インド内部のヒンドゥー教国やヒンドゥー教徒の民衆からの支持がなくなっていくなかで、ティプー=スルタンはなおもイギリス打倒の機会を探るが、その間イギリスもベンガル地方での徴税権獲得などを通じて植民地経営を強化し、またその範囲を広げようとマイソール王国への圧迫を強めてきた。
第2次マイソール戦争 第2次マイソール戦争では父の死後に式を継続し、イギリス軍を苦しめたが、1783年のパリ条約(1783)でアメリアの独立が認められ、フランスもイギリスと講和したため、翌84年に講和となった。ティプー=スルタンはイギリスとの戦闘で有利に戦い、イギリス側に実質的な利益を与えない講和に成功した。
フランスとの提携 1785年にはオスマン帝国にイギリスとの戦いでの同盟を申し込んだが、オスマン帝国は北方からのロシアの圧力に抵抗するためイギリスと結ぼうとしていたので成立しなかった。さらにティプー=スルタンは、イギリスの近代的戦力に対抗するための土地制度の改革や近代産業の育成などの必要を認識し、フランスから技術者を招ねくなど、近代化に着手した。同時に、1788年にはルイ16世との間でイギリスとの攻守同盟締結を申し出ている。これは、フランス革命が勃発するという情勢であったため結実しなかったが、ティプー=スルタンがイギリスの侵略を阻止するために、フランスと手を結ぶという幅広い国際感覚を持っていたことを示していて興味深い。
第3次マイソール戦争 イギリスはこのようなディプー=スルタンのフランスとの提携が成立することをおそれ、1790年にマドラスとベンガルの東西からマイソール王国に侵攻を開始し、第3次マイソール戦争(1790~92年)となった。マイソール王国の北側のマラーター同盟軍もイギリスに同調して攻撃されたためティプー=スルタンは降伏し、息子二人を人質に取られるなど屈辱的講和を押しつけられた。
第4次マイソール戦争 再起の機会を狙っていたティプー=スルタンは、フランス革命が進行してイギリスとフランスの対立が再び深刻になる情勢を見て、成立したフランス共和国との提携を模索する。1798年にナポレオンのエジプト遠征にあわせてナポレオン軍と提携することを模索したが、それは実現できなかった。しかしイギリスはマイソール王国の存在をインド支配の大きな障害として、1799年第4次マイソール戦争に踏み切った。このときもマラータ同盟軍などもイギリスに同調、しかもマイソール王国内でムスリムの支配に対するヒンドゥー教徒の反乱が起こり、ついにティプー=スルタンは敗れて首都スリランガパトラム城に追いつめられ、戦死した(1799年)。

Episode マイソールの虎 ティプー=スルタン

マイソールの虎
中央公論社『世界の歴史』14 p.271
 イギリス側の記録によるとティプー=スルタンは残虐きわまりない野蛮な王で、戦場では情け容赦なく敵を殺し、捕虜に対する扱いも人道に反する行為が多かったとして、「マイソールの虎」と恐れられた。都のスリランガパトラム城が陥落したとき、その焼け跡から見つかったという細工物が戦利品としてロンドンに送られた。これは虎がヨーロッパ人を悔い殺しているところで、虎の方のところにあるハンドルを回すと、人形に仕込まれた送風機がオルガンを鳴らして、苦しいうめき声を上げるというもの。現在もロンドンのヴィクトリアアンドアルバート博物館にあるという。

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書籍案内
インド最後の王 表紙
渡辺建夫
『インド最後の王―ティプー・スルタンの生涯』
1980年 晶文社