マイソール王国
南インドに成立したヒンドゥー教国。18世紀後半にはイスラーム教徒の王に率いられてイギリスと戦った。
マイソール王国は南インドのヒンドゥー教国であったヴィジャヤナガル王国が、1565年にイスラーム教勢力との戦いに敗れて崩壊したときに、その副王であったウォディヤール家が現在のカルターナカ州マイソールで分離独立して新王朝を建てたのが始まりとされている。ムガル帝国のアウラングゼーブ帝が南インドを征服すると、ヒンドゥー教国としてその勢力下に置かれた。1707年のアウラングゼーブ帝の死後、次第に勢力を強めていったが、中央インドに興ったマラーター王国に北辺を脅かされ、領土を保全するためにその宗主権を認め朝貢するようになった。
当時、インドでもっとも強力な軍隊を有していたマイソール王国は、イギリスのインド植民地拡大に激しく抵抗し1767年から1799年までの間に、4次にわたるイギリス側からマイソール戦争といわれる戦争を展開した。ヨーロッパ本土ではイギリスがアメリカ独立戦争で敗れ、フランスがアメリカ独立戦争を支援してイギリスと戦うという状況の中で、マイソール王国は1780年には8万の軍でマドラス(現チェンナイ)を総攻撃(第2次マイソール戦争)を行い、イギリス軍とって大きな脅威となった。しかし、1783年、アメリカの独立が認められ、フランスもイギリスとの関係を修復させたため、マドラスのイギリス支配は復活した。
ティプー=スルタンは降伏したものの再起を期し、フランスでナポレオンが台頭するとそれとの提携を図った。フランスとマイソール王国の同盟を恐れたイギリスは、1799年に攻撃を開始、マラータ同盟も同調した(第4次マイソール戦争)。さらにマイソール王国内では支配層のイスラーム教徒に対するヒンドゥー教徒の反乱が起こり、戦況は不利となり、ついに5月に入ってティプー=スルタンは戦死して戦争が終わり、イギリスは南インドに勢力を拡大した。<渡辺建夫『インド最後の王―ティプー・スルタンの生涯』1980年 晶文社 などによる>
イスラーム政権の成立
18世紀にはヒンドゥー教国のマイソール王国の実権はイスラーム教徒の武将ハイダル=アリーの手に握られるようになり、1761年に彼は王位を簒奪した。ハイダル=アリーとその子のティプー=スルタンのもとでイスラーム教への改宗が強制されるとともに、マラバール海岸地方のヒンドゥー教徒やキリスト教徒(ポルトガルが支配していたゴアを中心に広がっていた)にたいしても聖戦と称して勢力を広げていった。この親子は同時に領内の農業を奨励し、産業の近代化を図るなどにょって国力の再建に務めた。イギリスとの戦争
そのころすでにイギリス東インド会社はマドラス(1639年)、フランス東インド会社はポンディシェリ(1673年)を拠点として南インドに進出を介しており、1744~61年のカーナティック戦争・1757年のプラッシーの戦いでイギリスの優位が確定し、マイソール王国にも危機が迫っていた。当時、インドでもっとも強力な軍隊を有していたマイソール王国は、イギリスのインド植民地拡大に激しく抵抗し1767年から1799年までの間に、4次にわたるイギリス側からマイソール戦争といわれる戦争を展開した。ヨーロッパ本土ではイギリスがアメリカ独立戦争で敗れ、フランスがアメリカ独立戦争を支援してイギリスと戦うという状況の中で、マイソール王国は1780年には8万の軍でマドラス(現チェンナイ)を総攻撃(第2次マイソール戦争)を行い、イギリス軍とって大きな脅威となった。しかし、1783年、アメリカの独立が認められ、フランスもイギリスとの関係を修復させたため、マドラスのイギリス支配は復活した。
ティプー=スルタンの戦い
1789年、フランス革命が勃発し英仏関係が再び悪化すると、マイソール王国のティプー=スルタンはイギリスと戦うためにフランスとの同盟を図った。イギリスはマイソール王国がフランスと結ぶことをおそれ、ベンガル総督が1790年にマイソール王国に侵攻し(第3次マイソール戦争)、1792年までに王都セリンガパタムを占領した。ティプー=スルタンは降伏したものの再起を期し、フランスでナポレオンが台頭するとそれとの提携を図った。フランスとマイソール王国の同盟を恐れたイギリスは、1799年に攻撃を開始、マラータ同盟も同調した(第4次マイソール戦争)。さらにマイソール王国内では支配層のイスラーム教徒に対するヒンドゥー教徒の反乱が起こり、戦況は不利となり、ついに5月に入ってティプー=スルタンは戦死して戦争が終わり、イギリスは南インドに勢力を拡大した。<渡辺建夫『インド最後の王―ティプー・スルタンの生涯』1980年 晶文社 などによる>