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湘軍/湘勇

しょうぐん、しょうゆう。太平天国の乱を鎮圧するために曾国藩が湖南省で組織した郷勇の一つ。1853年に組織され、太平天国軍との死闘を繰り返し、1864年にはそれを滅ぼした。太平天国滅亡後に解散、李鴻章の編制した淮軍が有力となる。

 太平天国軍を鎮圧する目的で、1853年3月、湖南省湘郷県出身の漢人官僚曾国藩が、長沙で組織した義勇軍。湖南の別名にちなんで湘軍といわれ、その兵卒は湘勇といわれた。これは清朝の正規軍とは異なる、湖南省の漢民族を主体とした義勇軍で、一定の地域出身者で組織されるので郷勇といわれ、その前身の白蓮教徒の乱の時に自衛組織として生まれた団練をもとにして編制された。同じような郷勇には曾国藩の湘軍の他に、部下の李鴻章が組織した淮軍(淮勇)や左宗棠の組織した楚軍などがあり、いずれも清朝の正規軍である八旗緑営が実際の力を失っていたため、太平天国軍との戦いの主力となった。

曾国藩が組織

 曾国藩は科挙に合格した清朝の高級官僚であったが、儒者としても高名であり、キリスト教から出発した太平天国が儒教を妄説として非難し、孔子像を破壊していることにつよい憤りを抱いていた。清朝政府から太平軍を討つための義勇兵の組織を命じられ、彼を師と仰ぐ故郷の儒生を集め、彼らを中核として村々の農民を徴募した。兵士たちは指揮官に私的な忠誠を誓い、指揮官が死ねば部隊は解散することを原則としていた。また、湘軍の中核となった儒生の多くは地主層である郷紳であるので豊富な軍資金を持ち、規律も良かったので、正規軍に代わり、まもなく太平軍との戦闘の主力となった。<小島晋治『洪秀全と太平天国』初版1987 岩波現代文庫版 2001刊 p.189>

湘勇の編制

 1851年1月に蜂起した太平天国の勢力が拡大すると、清朝政府は正規軍である八旗緑営の力でそれを抑えることができず、反乱軍が1853年に南京で独自政権を樹立することを阻止することが出来なかった。そこでかつて白蓮教徒の反乱のころから生まれていた農村の自衛組織である団練の力を、地域の有力者である郷紳の力を借りて動員することを図った。その第一歩として咸豊帝は有力漢人官僚である曾国藩にその地盤である湖南省で新しい軍の編制を命じた。
 曾国藩は科挙を優秀な成績で突破したエリート漢人官僚であったが、儒教=孔子を崇拝する儒学者としても太平天国に強い反発を感じていたので、咸豊帝の要請に応え、1853年3月、郷紳の協力を得ながら従来の団練を利用して、あらたな軍の編制に着手した。それは従来の正規軍や団練と違い、兵士には高給を支給し、郷紳の同郷人ネットワークで組織し、自分の村の自衛の範囲を超えて反乱鎮圧のために遠隔地まで遠征できる、機動性のある部隊だった。この曾国藩が湖南省(その別名が湘)で組織した義勇兵なので、湘軍または湘勇と呼ばれた。後に同様なスタイルの軍隊は李鴻章の淮軍などのようにいくつも生まれてゆき、いずれも在地の郷紳を基盤としていたので、総称して郷勇と言われた。<岡本隆司『曾国藩』2022 岩波新書>
・POINT・ 湘軍の特徴 曾国藩に与えられた最も重要な課題は、太平軍に対抗できる強力な軍事力を創出することであった。そこでかれの軍団は従来の団練とは規模も行動範囲も内容も性質も異なっていた。その特徴はつぎのようにまとめることが出来る。
  • 兵卒 召集する兵卒は都会人を排して農民から選び、寄せ集めではなく、近隣・親戚・小作関係などのよしみを通じて集め、かつ官庁や家族から身元保証をとった。
  • 将官 職業軍人ではなく、曾国藩と友人・同族あるいは師弟の関係にある同郷の読書人(郷紳)をあてた。将官は下士官と兵卒を自分の知っている範囲で選んだ。
  • 給与 兵卒の給与は緑営の騎兵の2倍、守兵の4倍に相当、ピンハネ、遅配をなくした。将官の給与も緑営の2~3倍以上だった。
  • 水軍 長江流域の軍事作戦、補給路の確保の必要から、水軍(出師)を創設した。
  • 資金 軍の運営資金は現地調達とされ、地主・郷紳層からの寄付(捐納)と新たに創設された釐金りきん(本来は臨時の内地通行税。後に常態化した)で賄われた。
  • 統率 湘軍は清朝正規軍の統率を受けず、曾国藩と将校・幕僚らの自由裁量で統率された。
  • 徹底した私兵化 湘軍は曾国藩を総帥、営を軍隊の単位(1営=505人)とし、営官(大隊長)―哨官(中隊長)―什長(分隊長)―勇丁(兵卒)の上下関係は私的な主従関係で結ばれていた。私兵軍団化することで軍の統制と団結力を強め、将兵の離脱を防止した。
  • 儒教道徳の重視 異教である太平天国との戦いであることを強調、将官は伝統的な儒教イデオロギーに従い、兵卒を道徳上でも指導した。
<清水稔『曽国藩』世界史リブレット人07 2021 山川出版社 p.52-54 を要約>

湘軍の活躍

 曾国藩の組織した湘軍(湘勇)は、太平天国軍と死闘を繰り返し、時に敗れて曾国藩自身も自殺を図るほど追い詰められたこともあったが、次第に優位に立つようになった。客観的な情勢としては、太平天国側に内紛が起こり、指導者間の殺し合いなどが始まって分裂したこと、はじめはキリスト教信仰で結束する太平天国との提携を考えたイギリス、フランスなどが、次第に太平天国が外国に対して尊大な態度を取る清王朝と同じ姿勢であることに反発して、その鎮圧に転じ、特に常勝軍が太平軍と戦ってそれを破ったこと、などがあげられる。

湘軍の限界

 太平天国鎮圧に大きな力となった湘軍であったが、戦闘が長引いたかとで次第に弱点も明らかになってきた。湘軍は正式には清朝の正規軍ではなく曾国藩の私兵という扱いであったから、軍の維持、兵士の給与などは曾国藩の責任で賄わなければならなかった。曾国藩自身も最も悩んだのは作戦での勝敗ではなく兵士の給与をどう確保するか、ということだったと述懐している。
釐金の制度化 郷勇の軍事支出は、かつての団練の時代と同じで、自辨・現地調達が原則であり、同時に「捐納」といわれる義捐金(寄付)と釐金りきんであった。釐金とは同じく寄付のことだが、主として在地の商人を対象とし、もともと商人団体の慣行だった寄付を太平天国などの反乱鎮圧の軍費を賄うという理由で徴収した。その徴収方法は地域によってさまざまで、商人がマーケット(市)での権利の代償として納めたり、商業ルートの要所に徴収所を設けて関税として納めさせたりする形態があった。曾国藩もこの方法で財源を確保しており、湘軍などの郷勇が公認されると、この財源方式も公式に制度化される。

湘軍の解散

 1864年7月19日、曾国藩の弟の曾国荃が率いる湘軍が天京(南京)を落とし、太平天国は滅亡した。曾国藩は一等侯爵の位に昇進する栄誉を与えられたが、長びいた戦争のための疲労の他、湘軍には軍規の乱れ、新規兵力の補充の困難など、その維持は限界に来ていた。しかも太平天国は滅亡したとは言え、その残党は各地に散り、かえって治安の乱れが拡散し、特に淮河流域の捻軍の反乱は勢力拡大の傾向を見せていた。曾国藩はその現実を認識していたので、1864年太平天国滅亡後の南京入城とともに、彼は手塩にかけた12万の湘軍を解散することを決断した。それに代わって捻軍の鎮圧は部下の李鴻章が新たに編制した淮軍があたることになった。
湘軍解散の背景 湘軍解散の背景には、なによりも官軍の戦闘力を越える私兵集団を擁し、最高の官位にある漢人曾国藩にたいして、清朝宮廷の満州人の中に、彼が帝位を狙う野心があると見られることを恐れた結果である。自らは清朝に忠実であった曾国藩は帝位簒奪の嫌疑がかけられることを恐れ、おりにふれ爵位や高位の就任を固辞していた。これは一方では一種の保身の術とも言える。彼は湘軍の優秀な将校を自らの分身とも言える李鴻章の淮軍に委ね、李鴻章には淮軍を決して解散しないよう求めている。淮軍はいざというときの曾国藩の砦でもあった。<清水稔『曾国藩』世界史リブレット人07 2021 山川出版社 p.72>
反乱の連鎖
(引用)湘軍の兵卒の大半はわずか四ヶ月分、数十両ほどの涙金で解雇された。多くは帰るところのない下層の貧民であった。郷里の士紳をはじめ地方・中央の官僚、洋務派の官僚も、軍隊あがりの彼らを救済する道を講じなかった。解散兵は、結局「福あればともに享(う)け、苦あればともに受く」を信条とする哥老会などの秘密結社に、生存の道を求めた。彼らは「軍往けば散り(逃げ去り)、平時は郷里に潜踪(身を隠)して民となる」といわれるように、郷村・郷民に守られながら、その後湖南・湖北および長江下流域における哥老会の拡大と反乱(特に反キリスト教の排外闘争)の主役となった。曾国藩が愛する郷里を会匪から守るために創出した湘軍が、ふたたび郷里を武断し体制を脅かす会匪となった。皮肉な結果である。<清水稔『曾国藩』 p.73>
 → 北洋軍軍閥