遼東半島
渤海に突き出た大きな半島で先端に旅順・大連がある。1894年、日清戦争後の下関条約で清は日本に割譲したが、三国干渉によって日本は返還した。その後ロシアが進出、1898年に旅順・大連を租借、大連を商業港、旅順を軍港として東アジアの拠点とした。このロシアの進出を警戒した日本は、1902年に日英同盟を締結した上で、ロシアとの戦争に踏み切り、1904年に日露戦争が勃発、戦場となった。戦争後租借権を継承した日本は関東州を置いて支配。1945年、日本の敗戦により中国(中華民国)に返還された。
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三国干渉によって清に返還
1894年、日清戦争に勝った日本は、1895年4月17日、下関条約を締結、清朝に遼東半島の割譲を認めさせたが、6日後の1895年4月23日にロシア、フランス、ドイツによる三国干渉が行われ、日本に対して清への還付が勧告された。日本政府は、当時の国力から止むなしと判断してそれを受け入れ、同年11月に清朝政府との間で「遼東半島還付に関する条約」を締結し、遼東半島を清に返還し、新たに3000万両(テール)の代償を得た。12月21日に清国への還付を終えたので、遼東半島は7ヶ月間は日本領であったことになるが、この間、政府が邦人の渡航を禁じていたので日本の実質的な支配は行われなかった。日本とロシアの争い
その後はロシアの進出が強まり、1898年の一連の中国分割に際しては旅順・大連を租借した。ロシアは旅順に軍港を築き、アジア進出の拠点としたが、日本とロシアの対立がついに1904年の日露戦争となると、旅順はその最大の激戦地となった。日本の関東州設置
日露戦争で勝利した日本はポーツマス条約で遼東半島の租借権を引き継ぎ、遼東半島南部を関東州として支配し、それとともに1906年に設立された南満州鉄道を防衛するために、1919年に関東軍を設置した。以後、日本は遼東半島の関東州を足場に中国大陸への進出を図り、とくに関東軍は満州平野の併合を狙って満州の軍閥張作霖を奉天郊外で爆殺(満州某重大事件)し、さらに1931年に南満州鉄道が爆破されたことを口実に満州事変を起こし、戦線を拡張して満州全土を軍事支配、傀儡政権として満州国を建国した。
ただし、関東州は、日本の租借地としてそのまま残された。
大戦後のソ連の進駐
1945年、日中戦争が日本の敗戦となって終結し、遼東半島(関東州)は中国(中華民国)に返還されたが、旅順・大連にはソ連軍が駐留し、そのまま支配を続けた。1949年に成立した中華人民共和国はソ連との折衝を開始し、ようやく1955年に旅順・大連からソ連軍は撤退し、中国はこの地の主権を回復した。