アイルランド自治法
19世紀末からイギリスの自由党グラッドストン内閣によって3次にわたり提案されたがいずれも否決されたアイルランド自治法は、1914年、アスキス内閣の下でようやく可決された。しかし第一次世界大戦勃発で実施延期された。即時実施を求める急進派のイースター蜂起が起こったが鎮圧された。
1801年にイギリスに併合されたアイルランドでは、アイルランド人による自治の要求が強まり、アイルランド問題はイギリスにとっての大きな課題となっていた。アイルランドの自治を要求するアイルランド国民党もイギリス議会で一定の勢力を持つようになった。自由党のグラッドストンは、議会内で国民党の協力得るためもあってその問題解決に意欲を持ち、たびたびアイルランド自治法案(ホームルール法案)を提案した。しかし、アイルランド支配の維持を主張する保守党の反対により、下院で可決されても上院で否決されつことが続いた。自由党内でも産業資本家の利益を代弁するジョゼフ=チェンバレンらがアイルランドに対する自治付与に反対し、そのため自由党は分裂し、チェンバレンらは自由統一党を結成した。統一とはイングランドとアイルランドの統一(ユニオン)を維持すべきであるという主張を意味している。
それに対して、アイルランドでは、1905年にイギリス議会内で自治を実現するのではなく、自らのてで民族の独立を勝ち取ろうというシン=フェイン(アイルランド語で我ら自身、の意味。ただしこの段階では政党としての組織は持っていなかった)の運動が開始された。それ以外にも穏健派から急進派までさまざまな団体が生まれたが、まだ統一的な運動にはなっていなかった。
グラッドストンの死後、1912年にアスキス自由党内閣が第3回の自治法案を提案したが、内容はほぼ前回と同じで、このときも上院の反対で否決された。
このアイルランド自治法は、アイルランド国民党がイギリスの議会で長い間主張し、その要求を入れることで議会内の多数派を形成しようとした自由党政権が、党内で強く反対したジョゼフ=チェンバレンらが脱退するという犠牲を払ってまで成立させた施策であった。しかし、同時にアイルランドにも深い葛藤をまきおこした。アイルランド全体では自治法を容認することが大勢であったが、北アイルランドのプロテスタントの中には、自治の付与されることでイギリスから分離されることに強く反対した。彼らイギリスとの統一を維持することを掲げたのでユニオニスト(統一党)と言われた。それとは自治法はアイルランドをイギリス帝国の一部にとどめ、イギリス国王に従属させることであって完全な独立を意味しないと主張するナショナリスト(その中には民族主義者だけでなく、完全な共和制を実現すべきであるという急進派も含まれていた)も自治法に反対した。それぞれの意見の違いは武闘にもなると考えられそれぞれが「義勇軍」を組織した。北アイルランドのユニオニストの中の中にはアルスター義勇軍が組織され、それに対してアイルランド全島の独立をめざす人々はアイルランド義勇軍を組織した。
ところがイギリスはそこで第一次世界大戦の勃発という事態に直面することとなった。イギリス政府は、戦時体制を作り上げるには、アイルランド自治法の実施にともなう混乱は避けなければならないと判断し、その実施を戦争終結まで延期することとした。アイルランドの大衆は、穏健派の立場を支持し、戦争協力の立場から延期を認めたが、急進派の一部は強く反発した。
同時に少数派であるカトリック信者を一段と低くみて差別的な扱いをしたため、次第に両者の対立が深刻になっていった。カトリック信者は経済的にも農業を主としているため貧しかったこともあってより豊かな生活を送るプロテスタントにたいする反発があった。長い歴史的な事情の底流にはイギリス本国から移住してきたアングロ=サクソン系のプロテスタントには、アイルランド土着のケルト系民族を蔑視する傾向があることも否めない。この北アイルランドの民族的、宗教的対立は、第二次世界大戦後まで続き、1970~80年代に深刻な北アイルランド紛争となっていく。
それに対して、アイルランドでは、1905年にイギリス議会内で自治を実現するのではなく、自らのてで民族の独立を勝ち取ろうというシン=フェイン(アイルランド語で我ら自身、の意味。ただしこの段階では政党としての組織は持っていなかった)の運動が開始された。それ以外にも穏健派から急進派までさまざまな団体が生まれたが、まだ統一的な運動にはなっていなかった。
グラッドストンの死後、1912年にアスキス自由党内閣が第3回の自治法案を提案したが、内容はほぼ前回と同じで、このときも上院の反対で否決された。
アイルランド自治法の成立と延期
アイルランド自治法案はイギリス下院では可決されても上院で否決されることが続いていたが、1911年にアスキス内閣のもとで上院の改革が行われ、法案が下院で三回可決されれば、上院が反対しても成立する、という下院の優先のルールが決まったため、1914年9月に法案は「アイルランド自治法」として成立した。このアイルランド自治法は、アイルランド国民党がイギリスの議会で長い間主張し、その要求を入れることで議会内の多数派を形成しようとした自由党政権が、党内で強く反対したジョゼフ=チェンバレンらが脱退するという犠牲を払ってまで成立させた施策であった。しかし、同時にアイルランドにも深い葛藤をまきおこした。アイルランド全体では自治法を容認することが大勢であったが、北アイルランドのプロテスタントの中には、自治の付与されることでイギリスから分離されることに強く反対した。彼らイギリスとの統一を維持することを掲げたのでユニオニスト(統一党)と言われた。それとは自治法はアイルランドをイギリス帝国の一部にとどめ、イギリス国王に従属させることであって完全な独立を意味しないと主張するナショナリスト(その中には民族主義者だけでなく、完全な共和制を実現すべきであるという急進派も含まれていた)も自治法に反対した。それぞれの意見の違いは武闘にもなると考えられそれぞれが「義勇軍」を組織した。北アイルランドのユニオニストの中の中にはアルスター義勇軍が組織され、それに対してアイルランド全島の独立をめざす人々はアイルランド義勇軍を組織した。
ところがイギリスはそこで第一次世界大戦の勃発という事態に直面することとなった。イギリス政府は、戦時体制を作り上げるには、アイルランド自治法の実施にともなう混乱は避けなければならないと判断し、その実施を戦争終結まで延期することとした。アイルランドの大衆は、穏健派の立場を支持し、戦争協力の立場から延期を認めたが、急進派の一部は強く反発した。
イースター蜂起
延期に反対した急進派の中の民族主義者と共和主義者がつくっていたアイルランド共和主義同盟(IRB)のグループが大戦中の1916年2月24日に蜂起した。この武装蜂起であるイースター蜂起は、当時はまだ運動は組織的にはなっていなかったため全国に及ばず、ダブリンだけに限定され、準備不足もあったため失敗した。首謀者の16名が逮捕されて終わった。この蜂起に対するイギリス軍の弾圧が厳しく、裁判なしに首謀者を処刑したり、一般人を殺害したりという暴挙があったためイギリスに対する反発が第一次世界大戦末期に盛り上がり、蜂起の残党が加わったイギリスからの分離独立を主張するシン=フェイン党への支持が急速に高まりった。シン=フェイン党はすでに1905年に結成されていたが、イースター蜂起には組織的には加わっていなかった。イギリス=アイルランド戦争
1918年の総選挙は第4回の選挙法改正を受けて女性を含む普通選挙が実現し、大幅に有権者が増えたことから、シン=フェイン党への支持が高まり、その候補者の多くが当選した。しかし彼らはイギリス議会に参加せず、ダブリンで独自の議会を開催、「アイルランド共和国」の独立を宣言した。こうして1919年にイギリスとアイルランド独立派との間で本格的な戦争(英・アイ戦争)が勃発した。それはアイルランド独立戦争とも言われ、その戦いに参加したアイルランド義勇兵はアイルランド共和国軍(IRA)に組織されていった。ロイド=ジョージとアイルランド統治法
英・アイ戦争で消耗が続く中、イギリスのロイド=ジョージ内閣は、第一次世界大戦が終結したことを受け、1920年に「アイルランド統治法」を成立させた。それはアイルランドを二つに分割し、アルスター地方のうちプロテスタントの多い6州を「北アイルランド」はイギリス帝国の一部のままとしながら、一定の自治を与えて独自の地方議会を司法政府の設置を認め、それ以外の26州の「アイルランド」はイギリス帝国を構成する自治領(ドミニオン)として実質的な独立を認める、というものであった。つまり、アイルランドを北と南に分割し、それぞれに程度の違う自治を与える、という妥協的な措置であった。アイルランド自由国の成立
イギリスとアイルランドの戦争が長期化する中、次第に厭戦気分が強まり、停戦交渉が開始された。ロイド=ジョージ首相はロンドンにシン=フェイン党代表や北アイルランドのユニオニストの代表を招いて協議し、ようやく1921年12月にイギリス=アイルランド条約が締結された。これによって戦争は終わったが、この条約によってアイルランドは北と南に分離されるという大きな犠牲を払うことになった。特にこの条約をめぐってシン=フェイン党は分裂してしまった。アイルランドで住民投票の結果、条約受け入れ派が多数となってようやく1922年にアイルランド自由国が正式に成立した。アイルランドの内戦
しかし、アイルランド自由国を認めない条約反対派は武装して抵抗し、アイルランドは内戦状態となった。アイルランド自由国政府の首相となったマイケル=コリンズは、かつてはアイルランド共和国軍(IRA)を率いてイギリスと戦い、この条約を将来の独立への一つの段階ととらえて賛成したが、デ=ヴァレラらはイギリスの自治領に留まりイギリス帝国の自治領となることは、イギリス国教会の首長であるイギリス国王に服従することであり、共和政も否定されることから強く反対し、自由国政府軍と戦った。 → アイルランド問題プロテスタントとカトリックの対立
北アイルランド(アルスター州)はイギリス領に留まることになったが、イングランドから移住、入植したプロテスタントが多く、本国イギリスとの結びつきが強かったので工業化が進み、比較的豊かだった。彼らはイギリスと一体である方が有利であると考え、アイルランドへの併合に強く反対した。同時に少数派であるカトリック信者を一段と低くみて差別的な扱いをしたため、次第に両者の対立が深刻になっていった。カトリック信者は経済的にも農業を主としているため貧しかったこともあってより豊かな生活を送るプロテスタントにたいする反発があった。長い歴史的な事情の底流にはイギリス本国から移住してきたアングロ=サクソン系のプロテスタントには、アイルランド土着のケルト系民族を蔑視する傾向があることも否めない。この北アイルランドの民族的、宗教的対立は、第二次世界大戦後まで続き、1970~80年代に深刻な北アイルランド紛争となっていく。