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アイルランド共和国軍/IRA

アイルランドの独立を目指す武装勢力で、1919年に組織化、シン=フェイン党とともにイギリスと戦った。1921年、北アイルランドが分離しアイルランド自由国が成立してからは分裂を重ね衰退した。第二次世界大戦後、北アイルランドにおけるカトリックの解放を掲げて武装闘争を再開、70~80年代にイギリス軍、プロテスタント勢力に対する激しいテロをくり返し北アイルランド紛争となった。1998年に和平が成立し、現在は武装を解除している。

 Irish Republican Army 略称IRA。アイルランド共和軍とも訳される。現在は1970~80年代に北アイルランドでカトリック教徒の解放を目指し、テロやゲリラ戦を展開した武装集団として有名であるが、その源流は1920年代のアイルランド独立運動にあった。ただし、この戦前のIRAと戦後のIRAは、継続はしているが、その活動、性格はかなり異なっているので、分けて考えた方がよい。
 戦前のIRAも戦後のIRAも、高校世界史の授業では最近はとり上げられることも少なくなった(山川世界史用語集からも消えている)が、20世紀の現代における民族問題、宗教問題の深刻なケースとしてイギリスだけでなく世界に広くインパクトを与えていた存在であったので、無視することはできない。
 彼らがなぜあれだけ過激なテロ活動をおこなったのか、政党としてのシン=フェイン党との関係はどうだったのか、などなど、我々にとって判りづらいことも多いが、大きなテーマであるアイルランド問題(20世紀)北アイルランド紛争を理解する上ではIRAを知ることは欠かせない。混乱を避けて、時期的に分けてみていこう。

アイルランドの武装蜂起の前史

ユナイテッド=アイリッシュメン 12世紀に始まるイングランド人によるアイルランド進出は、17世紀のクロムウェルの征服によって決定的となり、植民地化が進んだ。それに対してフランス革命などの影響を受けたアイルランド民族独立の運動は18世紀末に始まった。その最初がウルフ=トーンの組織した「統一アイルランド人協会」(ユナイテッド・アイリッシュメン)であり、1798年に挙兵した。これはすぐ鎮圧されたが、その精神は後のアイルランド共和国軍の蜂起まで継承されていく。
青年アイルランド党とフィニアン この蜂起に危機感を持ったイギリスは、1801年にアイルランドを併合、直接的に領土化した。イギリスが産業革命で工業化が進み、繁栄したにもかかわらず、アイルランドは農業地域として位置づけられ、土地問題やカトリック教徒の差別に苦しんだ。1845年からのジャガイモ飢饉がそれに拍車をかけ、1848年には青年アイルランド党が武装蜂起、その後も1867年にフィニアンと名乗る秘密組織の武装蜂起が続いた。フィニアンはその正式名称がアイルランド共和主義者同盟(IRB)であり、IRBの名は20世紀に再び登場する。 → アイルランド問題(19世紀)
土地戦争 彼らの蜂起は明確にイギリスとの分離を意識していたが、当面の政治課題である土地問題の解決は1870年代に結成されたアイルランド国民党やアイルランド土地同盟によってイギリス議会に持ち込まれ、アイルランド土地法を成立させたが、彼らの活動はあくまでイギリス議会の中での改良にとどまったため、現地アイルランドでは80年代に「土地戦争」が繰り返された。
アイルランド自治法 そこでグラッドストン内閣はアイルランドに自治を付与することで問題を解決しようとしてアイルランド自治法案を議会に提出した。議会では下院で可決しても上院の反対で否決で成立しなかった同法案は、1911年の議院改革で下院優先のルールが確定し、1914年にようやくアイルランド自治法として成立した。しかし、すでに第一次世界大戦が始まっていたため、その実施は戦後に持ち越されることになった。鬱積していたアイルランドの独立要求はイギリスに協力して大戦の終結を待つか、イギリスの窮状につけこみ、今こそ独立を達成するべきかで分裂し、大勢は前者であったが、一部の急進派が後者をえらび、蜂起した。彼らはイギリス議会をつうじての改良では限界があると判断した。

アイルランド独立戦争でのIRA

 第一次世界大戦前にアイルランドの民族主義をかかげるさまざまな組織が生まれていた。それらはイギリス帝国内での自治を求めるもの、穏健な文化運動を進めるものなどから、急進的な共和政国家としての独立を求めて武装蜂起をとなえるものまでバラバラであり、統一された運動体は存在していなかった。一方では北アイルランドのプロテスタントはイギリスとの分離に強く反対していた。1905年に結成されたシン=フェインは後に政党として大きな役割を果たすが当初はアイルランド文化の自立を主張する小さなグループに過ぎなかった。
イースター蜂起 1914年のアイルランド自治法の施行延期に反対して武装蜂起を企てたのは、アイルランド共和主義同盟(IRB)を中心とした急進派だった。IRBは1867年に蜂起したフィニアンの正式名で、イギリスの王政に反対し共和主義を掲げて武装した秘密組織であった。彼らはパトリック=ピアースに率いられて1916年4月、ダブリンでイースター蜂起を起こしたが、それはイギリス軍によって厳しく弾圧され、首謀者16人は裁判なしに処刑された。蜂起に加わったがアメリカ国籍を持っていたために処刑を免れたデ=ヴァレラや逮捕を免れたIRBの幹部のマイケル=コリンズらは、シン=フェインに合流、新たに政党としてシン=フェイン党を組織した。イースター蜂起でのイギリスによる厳しい弾圧はアイルランド民衆の反英感情を一気に駆りたて、彼らはシン=フェイン党を強く支持するようになった。
アイルランド共和国軍の成立 1918年に行われたイギリス総選挙でシン=フェイン党はアイルランドでの議席をほぼ独占した。しかし彼らはイギリスの議会への登院を拒否して、ダブリンで独自のアイルランド国民議会を開催し、1919年1月21日にはアイルランド共和国の独立を宣言した。それに対してイギリスは軍隊を派遣、独立に反対するプロテスタント勢力と共に共和国を攻撃しアイルランド独立戦争が始まった。このときIRBの幹部であったマイケル=コリンズは共和国を守るために「アイルランド義勇軍」を組織した。これは実質的にアイルランド共和国を防衛するための軍となったので「アイルランド共和国軍(IRA)」と言われるようになった。あくまで義勇兵からなる武装組織であり、徴兵制に基づくような国防軍ではなかったが、1919~21年のイギリスからの独立戦争(イギリス=アイルランド戦争)でのアイルランド共和国軍の主力として戦った。しかし、武器は不足し、軍事的訓練も十分でなかったことから、イギリス軍に対して決定的な勝利を挙げることはできなかった。
分裂と衰退 イギリスとの戦争の長期化はアイルランドを荒廃させ、厭戦気運が出てきたことで、両者の交渉が行われ、イギリス首相ロイド=ジョージの調停の線に沿って1921年にイギリス=アイルランド条約によって妥協が成立した。それは、プロテスタントの多い北アイルランド(6州)はそのままイギリス領とし、それ以外のカトリックの多い南アイルアンド(26州)はイギリス帝国内の自治領「アイルランド自由国」として議会、政府などを持たせ、実質的な独立を認めるというものであった。
 アイルランドの南北分断は、翌1922年に住民投票が行われてその分割が固定化された。こうしてアイルランド自由国が成立したが、独立と言いながら自治領にとどまることはイギリス国王に従属することになり共和政治の実現ではない、と言う理由で反対したデ=ヴァレラが分離した。そのため新生アイルランドではこんどは自由国政府軍と反政府軍との内戦に突入した。これはアイルランド共和国軍の分裂を意味するので、これ以降は統一的な軍として行動は行われず、IRAは実質的に消滅した。

北アイルランド紛争でのIRA

 北アイルランドでは、多数派のプロテスタントは、イギリスとの一体化の強化を望み、アイルランドへの併合には強く反対し、少数派であるカトリック信者への差別的な言動や行動が続いた。
 第二次世界大戦後、IRAは勢力を復活させようとして1949年にシン=フェイン党と合体し、それを政治部門として位置づけた。同1949年4月18日、アイルランドはイギリス連邦から脱退して正式に「アイルランド共和国」を名のる共和政国家として自立したが、北アイルランドは依然としてイギリス国王の統治する国家の一部であり形としては立憲君主政下の地方議会を持つ存在に過ぎなかった。
カトリック教徒の公民権運動 1960年代にアメリカの黒人の人権問題から公民権運動が盛り上がり、世界的な影響を強める中、北アイルランドでもカトリック信者の解放を主張する声が強まった。北アイルランド紛争が表面化するなかで、1969年8月にIRAは武装闘争開始を宣言し、プロテスタント側に対するテロを開始、その政治部門シン=フェイン党は選挙にも参加し、この時期の両者の活動は「銃弾と投票箱」といわれた。それに対抗してプロテスタント側も武装して激しい戦闘が繰り返されるようになった。
IRAの再分裂 しかし、その過程でIRAの中にも勝利の見通しのない武力抗争に反対し、政治活動を主体にすべきだという穏健派が主流を占めるようになると、武力闘争継続を主張するグループはそれに不満を持ち、1970年、正統派に対してIRA暫定派として分離した。暫定派は各地でのテロ攻勢を継承したが、それがさらに分裂をよび、さらに過激なグループが生まれるという悪循環が続いた。イギリス当局は、北アイルランドのIRAを根絶するためと称して「インターンメント」といわれる逮捕状なしでIRA員を拘束できる制度を導入したが、その過剰な警備は1972年1月30日に北アイルランドでカトリック教徒の公民権運動に対してイギリス軍が発砲するという「血の日曜日事件」を引き起こし、強く非難されるようになった。
 1984年10月、IRAはイギリスの保守党大会が開催されていたブライトンのホテルを爆破、4人が死亡するというテロを実行した。難を逃れたサッチャー首相は国民の同情を集め、IRAに対する厳しい弾圧に転じ、またアイルランド国民もIRAの過激なテロを非難する声が強まり、IRAの活動は北アイルランドだけに限られるようになった。

和平合意とテロ活動の収束

 1998年4月10日「北アイルランド和平合意」(聖金曜日合意、ベルファスト合意ともいう)が成立した。これによって北アイルランド地方議会が再開され、高度な自治のもとでイギリスの一部として残り、アイルランドは北アイルランドの領有権を放棄した。それを前提として2年以内にテロ組織は武装解除するという内容であったが、なおも武装解除に応じないグループも存在し、問題の解決は困難を極めた。しかし、テロに対する非難が強まり、2005年には、それまで武装闘争の主力となっていたIRA暫定派が武装放棄、内戦終結宣言をだした。
ヨーロッパ統合の進展と再びの危機 その背景には、イギリスがECに加盟し、ヨーロッパ連合(EU)の一員となったことによって、同じEU加盟国であるアイルランドと北アイルランドの国境が開放され、事実上の一体化が進んだことがあげられる。
 ところが、2019年、イギリスがEUを離脱することになり、再び国境が封鎖されればIRAのイギリスからの分離、アイルランドとの合一をめざすテロ活動が復活するのではないか、と危惧された。イギリスのEU離脱が簡単にいかなかった理由の最大の懸案であったが、当面現状を維持することで離脱は強行された。しかし、なおも問題の再燃が今も懸念されている。
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書籍案内

鈴木良平
『アイルランド問題とは何か』
2000 丸善ライブラリー

IRA前史から1998年和平合意までを扱う手頃な概説書。人物中心の記述。

鈴木良平
『IRA アイルランドのナショナリズム』第四版増補
2013 彩流社

IRA(アイルランド共和国軍とする)に関するまとまった本。増補版で和平合意までを含む。詳しく知る場合には本書が良い。

森ありさ
『アイルランド独立運動史』
シン・フェイン、IRA、農地紛争 1999 論創社

イースター蜂起から独立戦争に至る時期に限定した研究書。IRAを「アイルランド義勇軍」と規定する。

Amazon Prime Video

ジム・シェリダン監督
『父の祈りを』
ダニエル・ディ=ルイス他
1993 イギリス映画

1972年に起こった爆弾テロ事件で、IRAと間違われて投獄されたアイルランド青年。アイルランドの苛酷な現実、警察と裁判の怖さ、70年代のイギリスを描いた作品。見ごたえがある。