アフリカ横断政策
19世紀後半のフランスがアフリカで採った帝国主義政策。アフリカ縦断政策をとるイギリスと対立し、1898年にファショダ事件で対立したが、妥協し衝突を回避した。
フランスは、1830年に復古王政期のアルジェリア出兵で北アフリカ進出を果たし、七月革命後も撤兵せず、ルイ=フィリップの七月王政、第二共和政、ナポレオン3世の第二帝政の各時期に海外植民地として継承された。第3共和政の時期には、アルジェリアへの入植者(コロン)も増大、さらにエジプトへの介入、チュニジアを巡りイタリアと対立するなど、北アフリカへの侵出を活発にしていく。
アフリカ横断政策
さらに19世紀末には他の帝国主義諸国のアフリカ分割に積極的に加わり、サハラ砂漠を南下し、コンゴ地方に進出してコンゴ川右岸(北岸)を獲得し、さらに西アフリカからスーダンに進出を図った。一方で、東北アフリカのジブチを拠点としてエチオピアから内陸に入り、東西からスーダンでの勢力の連結を目指した。これが横断政策である。ファショダ事件
このフランスの動きは、1898年にはアフリカ縦断政策をとるイギリスとスーダンで衝突し、ファショダ事件となった。マルシャン大佐の率いるフランス軍は先にスーダンの要地ファショダに入り、フランス国旗を掲揚したが、当時、イギリスはすでにマフディーの反乱を鎮圧し、スーダンを抑え、強力な軍隊を駐屯させていたので、フランスのマルシャンとイギリスのキッチナーの両軍の現地指揮官が会談し、フランス軍が妥協して撤退し、衝突は回避された。フランスのアフリカ植民地
こうしてフランスの譲歩で全面対決には至らなかったが、フランスはその後もアフリカ分割に積極的に関わった。アフリカ北西部では植民地アルジェリアから勢力を西に拡げようとして、モロッコをめぐってドイツのヴィルヘルム2世とも対立し、2次にわたるモロッコ事件が起こる。またフランスは他にコンゴ川右岸(フランス領コンゴ)植民地を維持し、アフリカ北西部のソマリランドの分割に加わり、またマダガスカルの占領を継続した。