印刷 | 通常画面に戻る |

ファショダ事件

1898年、アフリカのスーダンで、縦断政策をとるイギリスと横断政策をとるフランスが衝突の危機となった。衝突は回避されフランスがファショダを明け渡した。帝国主義国家によるアフリカ分割の一コマとなった。

ファショダ事件

握手する左がフランスのマルシャン、右がイギリスのキッチナー
Our Empire's Story の挿絵より

 アフリカ縦断政策をとるイギリスと、アフリカ横断政策をとるフランスが、1898年9月、ナイル川上流、スーダンのファショダで起こした事件。帝国主義をとる国家同士が、アフリカで利害を対立させた事件の最初のものとされる。しかし両軍は一触即発のにらみ合いとなったが、衝突は回避され、イギリスのキッチナーとフランスのマルシャンが現地で握手、帝国主義国同士の妥協が成立し、領国によるアフリカ分割へと向かう契機となった。
 同年に起こった米西戦争や列強による中国分割などと並んで、帝国主義国家による世界分割の典型例の始まりであった。 → アフリカ分割

イギリスとフランスの帝国主義の衝突

 イギリスはエジプトのカイロからケープ植民地のケープタウンを結ぶ鉄道の建設を目指し、ナイル川上流のスーダンに進出、1881年以来のマフディー教徒の抵抗に手をやき、ゴードンがハルトゥームで戦死するという苦戦を強いられていたが、1896年からキッチナー将軍を派遣し、スーダンの制圧を本格化させた。
 一方フランスは1889年のブーランジェ事件の危機を乗り切った第三共和政政府は帝国主義的植民政策を活発にし、アフリカ西部のモロッコ・サハラとアフリカ東部のジブチを結ぶアフリカ横断政策を採って、1896年にマルシャン大佐を派遣した。マルシャンの率いる部隊はコンゴ川流域から上スーダンに入り、ファショダにフランス国旗を掲げた。
 イギリスの首相兼外相ソールズベリは直ちにキッチナー将軍をファショダに派遣、1898年9月19日、フランス軍を包囲し、撤退か戦争かを迫った。上スーダンにおけるイギリスとフランスの対立は領国の国内でも報じられ、それぞれ強硬論が高まり、領国の対立は頂点に達した。<事件の経緯については、川田順造『アフリカ史 新編世界各国史10』2009 山川出版社 p.437-444 を参照>

衝突回避と英仏の交渉

 しかし、フランス政府は現地のマルシャンに撤退を命じ、ファショダをイギリス軍に明け渡した。イギリス・フランスの政府間交渉により、1899年に協定を結び、フランスは上ナイル地方をイギリスの勢力範囲として認め、コンゴの一部に代償を獲得することで妥協が成立した。
 フランスにとっては1871年の普仏戦争以来の屈辱とも受けとられたが、衝突を回避し、全面対決を避けた理由は
  • 当時フランス国内ではドレフュス事件で国内の統一が取れていない状況でもあったこと。
  • 当時、露仏同盟を結んでいたロシアは、東アジアで満州・朝鮮を巡る日本と対立で余裕がなく、その支援を受けられなかった。
が考えられる。

事件後の英仏の協調

 ファショダ事件はイギリス・フランス両国の対立の頂点であると共に、両国関係の改善のための転機ともなった。それは、1888年にヴィルヘルム2世が即位したドイツ帝国世界政策を掲げ、イギリス・フランスの植民地支配に割って入る勢い示し始めたためである。
 イギリスはアフリカ縦断政策を押し進め、翌1899年には南ア戦争を開始したが、その露骨な帝国主義は国際的な非難を受けた。しかもドイツの3B政策との対立、さらに建艦競争が厳しくなるにともない、「光栄ある孤立」から転換せざるを得ない情勢となった。それが、1902年の日英同盟の締結に続き、1904年に英仏協商に踏み切る背景であった。この英仏協約でイギリスがエジプトを、フランスがモロッコを植民地支配することを相互に認めると共に、将来的な対ドイツ軍事同盟の前提となった。