膠州湾
ドイツ(ヴィルヘルム2世)が、ドイツ人宣教師殺害事件を口実に山東半島南側の膠州湾に上陸、1898年、清に99年間の租借を認めさせ、その入口に青島に基地を建設した。同年のイギリス、ロシア、フランス、日本による中国分割の口火を切った。第一次世界大戦で日本が青島を攻撃、占領後領有を主張。
ドイツによる占領
こうしゅうわん。中国の山東半島の南側にあり、天然の良港であった。日清戦後に、清朝の遼東半島の日本への割譲に対して三国干渉を行ったドイツは、中国沿岸に貿易や海軍の基地になる港湾を設けようと各地を物色した。1896年8月、ドイツ東洋艦隊の司令長官ティルピッツは、山東半島南側の膠州湾が適当であると政府に報告した。著名な地理学者ヒリトホーフェンも山東半島を有望な土地であると保証したが、膠州湾にはすでにロシア海軍が冬期の極東艦隊の寄港地として利用していたから、ヴィルヘルム2世はロシアとの交渉を行うことにした。たまたま1897年11月1日、二人のドイツ人カトリック宣教師が山東省の南部で中国人に殺害されるという事件が起きると、ヴィルヘルム2世は直ちにティルピッツに膠州湾の占領を命令し、ついで皇弟ハインリヒを司令官とする遠征軍を本国から急派し清朝に対して賠償を要求し占領した。ロシアはこの迅速な干渉の前に譲歩し、膠州湾から旅順口へ主力を移した。膠州湾の位置は山東半島のページ参照。
ヴィルヘルム2世の海軍増強の開始 ドイツ帝国のヴィルヘルム2世が、遠く中国の山東半島の膠州湾まで艦隊を送り、上陸・占領を行ったのは、その年の4月、彼自身が「世界のいたるところで、われわれはドイツの市民を保護しなければならず、またいたるところでドイツの名誉を守らなければならない」と演説していたことと関係がある。彼はビスマルク時代の勢力均衡にもとづく世界秩序を否定し、積極的にドイツ独自の勢力拡大を図る世界政策をめざした。その最初の試みが膠州湾占領だったのであり、それを成功させることで同1898年に第一次艦隊法を成立させ、イギリスとの建艦競争に踏み出すこととなる。<義井博『ヴィルヘルム2世と第一次世界大戦』2018 清水書院 p.55,61>
99ヶ年の租借条約
そこで翌1898年3月6日、ドイツ政府は清朝政府との間で膠州湾の99ヶ年間の租借条約を結び、同時に山東半島の鉱山、鉄道の権益を獲得した。 この動きに刺激された列強は直ちに同様な行動に出て、1898年、次々と清朝政府に迫り、それぞれ租借地を獲得するという形で中国分割を行った。ドイツは膠州湾を99年間の租借とし、湾の入口に青島(チンタオ)港を建設して、ドイツ東洋艦隊の拠点とした。これらは19世紀末期に顕著になった、資本主義先進国の帝国主義政策による世界分割の一つであり、現地の民衆を犠牲にしながら本国の資本主義経営を発展させようとしたものであり、同時にこのような列強の侵略行為は列強間の利害の対立を先鋭化し、世界戦争への破滅の道を進むことを意味していた。
日本軍の青島占領
第一次世界大戦が起こると、日本は日英同盟にもとづいて参戦し、青島を占領した。日本はさらに1915年1月、二十一カ条要求を中国政府に突きつけ、膠州湾の還付を条件に山東省のドイツ権益の継承を強要した。パリ講和会議では中国の抗議にもかかわらず、日本の主張が認められたため、五・四運動など激しい反対運動が起こった。日本の中国大陸進出は、次第にアメリカの警戒するところとなり、1922年のワシントン会議では日本に迫り、九カ国条約によって日本は膠州湾租借地など山東権益を中国に返還した。 → 山東問題