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中華革命党

袁世凱政府の弾圧によって国民党が解散した後、1914年に孫文が亡命先の東京で結成した秘密結社方式の政党。1917年に広東軍政府を発足させるも内部抗争で敗れる。1919年に五・四運動後の新たに大衆政党として中国国民党を組織する。

 清朝を倒す活動を続けた孫文が、興中会中国同盟会国民党に続いて結成した、中国革命を目指す政党。ただし、孫文と個人的つながりの強い同志をメンバーとした秘密結社であり、大衆に開かれた公開政党ではなく、その組織も整備されておらず、孫文の個人政党という面が強かった。

秘密結社として活動

 辛亥革命によって成立した中華民国が袁世凱の専制政治へと変質したことに対し、第二革命を戦ったが失敗、袁世凱の大総統就任という情勢となった。孫文は亡命先の東京で、1914年7月、前年に解散した国民党の勢力を再結集した政党。議会制に備えて結成された国民党が袁世凱の弾圧で解散に追い込まれたため、孫文は再び秘密結社的な革命集団が必要と考えた。党員には孫文個人への忠誠を尽くすことも求められた。このような孫文の絶対化に対してはかつての同志からの批判も強く、黄興や李烈鈞らは袂を分かち、参加しなかった。そのため党勢はのびなかった。

第一次世界大戦と中国

 1914年の第一次世界大戦が勃発すると、1915年日本が二十一カ条の要求を突きつけ、袁世凱政権はそれをほぼ受諾し、その一方で権力独占を図り帝政宣言を発し自ら皇帝となった。これに対する第三革命(護国運動)が起こり、袁世凱も帝政を実現できずに1916年に死亡した。
 袁世凱の死後、北京の軍閥政府で実権を握った段祺瑞が日本と結んで革命派に対する攻勢を強めると、孫文は1917年9月、広東軍政府を樹立した。これは中華革命党を中心に組織された独立政権で、広東省一帯に限定されるが、中華民国の北京政府に対抗して作られた最初の国民的な政府で会った。 → 国民政府(中国)

中国国民党を結成

 しかし、広東軍政府は、それ自身も地方軍閥の集合体という性質が強く、孫文の革命理念で一致しているわけではなかった。そのため、内部抗争が起こり、十分な軍事力を持っていなかった孫文は敗れて、上海に逃れた。その時、1919年、全国的はヴェルサイユ条約調印反対という広範な運動として、五・四運動が高揚した。孫文自身は五・四運動には関わっていなかったが、このような大衆運動が影響を与えたことは十分考えられ、秘密結社による革命運動に限界を感じていた孫文は、同1919年10月10日、大衆政党としての中国国民党に新たに組織した。
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