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広東軍政府/広東政府

1917年~25年、北京の軍閥政権に対抗して、孫文が中心となり、広東省広州に樹立した中華民国の地方政権。有力者間の内紛も絶えず孫文の地位は不安定だった。孫文の死去の翌1925年、五・三〇運動のナショナリズムの高揚を背景に、広州で新たに国民政府が樹立された。

 辛亥革命によって成立した中華民国であったが、まもなく孫文と袁世凱の対立が始まり、首都北京は袁世凱に押さえられた。袁世凱政権は日本の二十一カ条要求に応じて国民の非難を浴びたが、にもかかわらず皇帝となろうとして第三革命という反対運動が起こった。しかし1916年に袁世凱は病没、北京政府の政権は軍閥による争奪という混乱に陥った。しかし安徽派の段祺瑞は実権を握ると日本の支援を受けて全国統一に乗り出す形勢となった。段祺瑞政権は日本からの資金(西原借款)で、軍閥及び広東の孫文らとの戦いを進めようとした。

第1次広東軍政府

 危機感を持った孫文は、上海から広東に移り、臨時約法を守る「護法」をスローガンにかかげて北京政府に対抗することを決意、中国西南地方の有力軍閥に働きかけ、1917年9月10日に自ら大元帥となって軍事政権を樹立した。この第1次広東軍政府は、雲南の唐継尭、広西の陸栄廷などの地方軍閥の力を頼り、北京政府の段祺瑞軍と「護法戦争」を戦った。しかし内部対立から困難な闘いが続き、敗北して地方政権から脱皮することができなかった。
 その後、1919年にヴェルサイユ条約反対の民衆運動が五・四運動となって高揚すると、孫文はそれまでの秘密結社的な中華革命党に代わって、大衆政党として中国国民党を組織した。同年、ソヴィエト=ロシアはカラハン宣言を中国国民に向けて発表、同時に北京政府と広東政府との交渉を働きかけてきた。孫文はロシア革命の成功に心を動かされ、旧ロシア権益の放棄などのソヴィエト政権の申し出を受け入れるとともに連携を強めていった。しかし、広東軍政府の内部は内紛が続き、1920年には有名無実の状態に陥った。

第2次広東軍政府

 1920年12月、孫文は広東軍閥陳炯明(ちんけいめい)との連合政権として第2次広東軍政府とした。ここでは孫文が総統として主導権を握り、北京政府に対する北伐を準備した。1921年11月にはワシントン会議が開催されると北京政府代表が参加、広東政府は参加しなかった。1922年に孫文は北伐の軍事行動を開始したが、それに対して広東軍閥の陳炯明は広東に自治的な独立政権を作るべきだと主張して孫文に反対し、クーデタを起こして軍政府の実権を握った。それによって孫文は広州を離れて上海に逃れた。国内での基盤を失った孫文は上海でコミンテルンと接触し、ソ連(1922年に成立)の派遣したヨッフェとの間で1923年に合同宣言を発表し、ソ連の支援を受けるとともに共産党を受け入れるという、いわゆる「連ソ・容共」で合意し、中国共産党(1921年結成)との合作をすすめることで合意した。

第3次広東軍政府

 1923年2月に広州にもどった孫文は雲南軍と広西軍の援助を受け、大元帥として広東軍政府を再建、これを第3次広東軍政府(大元帥府)といっている。孫文はソ連との連携をさらに強め、1924年1月、広州で中国国民党一全大会を開催し、共産党との第1次国共合作を正式に決定した。
 国共合作を実現した孫文は、中国の統一が近づいたと考え、北京政府にも働きかけた。おりから北京政府の軍閥間の抗争は泥沼化しており、国民は切実に平和と国家統一を希望するという機運が強まっていた。ついに北京政府も孫文を北京に招聘し、統一の話し合いが始まることとなり、孫文は日本経由で北京に入ったが、その時すでに病は重篤になっており1925年に北京で死去した。

広東軍政府から国民政府へ

 国共合作が成立したことにより、広東軍政府の中国国民党には共産党員も加わり、またコミンテルンから派遣されたロシア人政治顧問ボロディン、軍事顧問ゲランなどが活動し、北京政府に対抗する実力を育てようとした。しかし、孫文の死後の体制をめぐり混乱が生じた。真の独立と統一という孫文の理念を国共合作によって実現しようとする主流派に対し、孫文のソ連および共産党寄りの姿勢に不安を持つ中国国民党右派も多く、北京政府と合体するには共産党は排除した方がよいという勢力もあった。国民党左派は汪兆銘(汪精衛)、右派は戴季陶(理論面)、蔣介石(軍事面)などを中心に、次第に違いが明確になっていった。
 そのような中、孫文の死後間もない1925年5月30日、上海で始まった五・三〇運動は国民党の左右両派の思惑を越えた、反帝国主義、ナショナリズムの民衆運動として盛り上がった。その動きに対応して広東政府の体制を造り替えることとなり、1925年7月、広東軍政府は解散、変わって広州に新たな国民政府が発足することとなった。この国民政府は広州国民政府と言われ、これ以降の国民革命を推進する中核となる政府となるが、国民政府は広州国民政府の後、武漢国民政府、南京国民政府などのように政府所在地を関して言われるようになる。
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