マクドナルド
イギリス労働党の指導者。1924年、イギリス初の労働党内閣を組織。30年代まで何度か組閣した。
James Ramsay MacDonald 1866-1937 イギリスの労働党生え抜きの指導者。スコットランドの農民出身で、ロンドンでジャーナリストとなり、ケア=ハーディが組織した最初の社会主義正統である独立労働党に、その結党の翌年の1894年に参加した。1900年に労働代表委員会が成立するとその書記になり、1906年に労働党と改称した年にはじめて下院議員に選出された。その後も労働党の指導者として活躍し、1911年には党首に就任した。しかし、第一次世界大戦が勃発し、労働党も他国の社会主義政党と同じく、自国の参戦を支持したのに対し、マクドナルドはあくまで反戦を主張した。そのため党首を辞任し、「売国奴」と罵られることもあったが、反戦の立場を一貫して貫いた。
第1次 連立内閣
1922年、下院議員に再選され、再び党首に返り咲くと、1918年の選挙法改正(第4回)による男性普通選挙の実現によって党勢を伸ばし、1923年の総選挙で第2党に躍進し、翌1924年に自由党との連立で第1次マクドナルド労働党内閣を成立させた。これがイギリス最初の労働党内閣の成立であった。マクドナルド内閣は、失業者の救済などの政策、ソ連の承認などを行ったが、社会主義への接近を恐れた自由党が反対に廻ったため、10月の総選挙で敗れ、短命に終わった。第2次労働党単一内閣から第三次挙国一致内閣へ
世界恐慌に直面
1929年に行われたイギリス総選挙は、その前年の選挙法改正(第5回)で、男女平等選挙権が実現してからの最初の選挙だった。21歳のすべての女性に選挙権が拡大された、画期的な総選挙となり、その結果、労働党が議席数で第一党となり、労働単独内閣が成立し、党首マクドナルドが再び首相となった。保守党は得票率では労働党を上回っていたので、労働党政権は不安定とならざるを得なかった。ロイド=ジョージの自由党は積極的な失業対策を公約したが、党勢衰退はとどめることができず、保守党・労働党の二大政党という戦後に続く状況がはじまることとなった。この第2次マクドナルド労働党内閣は、成立直後に世界恐慌に見舞われた。失業保険の削減
イギリス経済は世界大戦後に、炭鉱・鉄鋼などの伝統的な産業が停滞し、失業者も増大していたので、世界恐慌の影響を直ちに受けることになった。世界恐慌に直面したマクドナルド労働党政権は、財政当局が提案した緊縮財政によるデフレ政策をとり、1931年8月に失業手当10%切り下げを含む緊縮案を作成した。失業手当の削減は、労働党の支持基盤である労働組合の強い反発をよび、労働党内閣は閣内不一致に追い込まれ、マクドナルドは労働党を除名されて8月24日に崩壊した。第3次 挙国一致内閣
マクドナルド労働党内閣が崩壊したとき、イギリス国王ジョージ5世が仲介に動いた。労働党から除名されたマクドナルドを再び首班とすることで、保守党と自由党を加え、挙国一致内閣を樹立しようというのである。それによって9月にマクドナルド挙国一致内閣が成立し、内閣は直ちに国民の信をと言うとして総選挙を行った。その結果、挙国一致内閣を維持することを掲げた保守党が圧勝し、反対した労働党は惨敗した。総選挙後もマクドナルドは首相としてとどまったが、これは挙国一致の建前のために過ぎず、その実態は保守党内閣に等しいものであった。この内閣は、緊縮財政の実施、金本位制からの離脱に続き、保護関税法による保護貿易主義への転換、オタワ連邦会議の開催とスターリング=ブロックによるブロック経済の構築という1930年代の世界恐慌対策を進めたが、これらは保守党の大蔵大臣ネヴィル=チェンバレンらに主導されたものであった。
マクドナルドは第2次、第3次内閣の首相として、内政の経済政策では保守党に引きずられて保護主義に転じる結果となったが、外交では本来の平和主義の姿勢を失わず、1930年のロンドン軍縮会議の招集など、積極的に動いた。また、世界恐慌に対する各国の協調を呼びかけ、ロンドン世界経済会議を開催するなど国際協調に努めた。しかしマクドナルド自身は労働党から離れ、国民労働党を組織したが、労働党からは「裏切り者」と見られ、党勢は伸びず、国民的支持もなかった。1935年に首相の座を保守党のボールドウィンに譲って実質的に引退した。