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ハリジャン

ガンディーが不可触民をこう呼び、その解放、平等化の運動を行った。しかし、不可触民はこの言葉を用いず、自らをダリトと呼ぶことが多い。現在ではハリジャンを使うことは禁止されている。

 インドのカースト制社会の中で、カースト外に置かれた被差別、被抑圧民が存在した。彼らは不可触民はパーリヤ等と言われ、動物の屠殺や皮革業、死体の処理などを世襲し、村落の中で差別されながら貧困に苦しめられていた。ガンディーは、このような差別はヒンドゥーの教えに反するとして反対していた。ただし、ガンディーのカースト制に対する考えは微妙で、熱心なヒンドゥー教徒であったからヴァルナについては肯定しており、またヴァルナによる職業の固定は認めていたが、ヴァルナ間の身分の高低に基づくジャーティについては否定していたとされている。その思想からガンディーは、カースト身分の下におかれた不可触民=パリジャンが差別されることを反対した。20世紀以降の現代のカースト問題とは「カースト外の不可触への差別」問題を意味するようになった。
 インドでは第一次世界大戦後、1920年代からガンディーらが自治を実現すべく、非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ)を続けており、1930年代には第2次非暴力・不服従運動はさらに大きな運動として盛り上がっていた。それに対して、イギリス当局はいわゆる分割統治による運動の分断を図り、不可触民に対して州議会選挙の特別枠(不可触民だけが立候補できる選挙区)を作ることを1931年9月7日の第2回英印円卓会議で提案してきた。

イギリスの分割統治の策謀

 この分離選挙制度は、コミュナリズムといわれる宗教の違いやカーストの違いで形成される社会集団(コミュナル)間の対立を利用しようとする分割統治の策動であり、不可触民に一定の議席を与えて、国民会議派の議席をその分だけ減らすことを狙ったものだった。自らも不可触民出身でその解放運動を行っていたアンベードカルらはそれを受け入れようとしたがガンディーは頑強に反対し、孤立したため英印円卓会議から退場した。インドに帰ったガンディーはイギリス官憲に捕らえられ入獄した。
 1932年8月、イギリのマクドナルド挙国一致内閣は、不可触民の分離選挙を認め、コミュナル裁定を発表した。それ対して獄中のガンディーは、不可触民に選挙上の枠を与えることは、インド社会の呪うべき慣習を法的に固定化することであると考えて強く反発し、抗議の断食に入った。それにならって多くのヒンドゥー教徒も断食に入り、またコミュナル裁定の廃止を嘆願した。このガンディーの必死の抵抗を受け、アンベードカルは妥協して分離選挙の要求を取り下げ、その代わりに不可触民のために保留議席を設けることで合意した(1932年9月24日に「プーナ協定」)。イギリスもその合意を受け入れ、1935年8月制定の新インド統治法では不可触民を「指定カースト Scheduled Castes 」と位置づけた。

ガンディーのハリジャン運動

 このような数千年にわたるインドの因習である不可触民の解放が、最も困難であり、最も重要な課題であると考えたガンディーは、不可触民をハリジャン(神の子)と呼び、その解放による農村復興運動(ハリジャン運動)に賭けることにした。ガンディーは断食を中止し、1933年8月に出獄すると、農村を遊説して廻り、偏見をなくすよう平等を説いて、みずからハリジャンの女の子を養女とした。こうしてハリジャン運動という社会運動に傾斜したガンディーに対して、イギリスとの政治的な戦いを進めようとするネルーやチャンドラ=ボースは不満を持つようになった。このような対立が生じたため、1934年5月に非協力運動の停止を指令した。ガンディーは政治的な独立よりも、自立した平等な社会を作ることこそが真の独立だ、と考えていたのに違いない。
 ガンディーは差別には強く反対したが、ヴァルナ(カースト)そのものを否定していたのではなかった。いわゆるカースト制は、インドの伝統であるヒンドゥー教を基盤とした、社会を安定させるシステムとして生かせるべきだと考えていた。それは、闘いと競争に開けくれる西洋社会に比べても価値があるとの思想(反西洋思想)からくることであり、粗末な綿布(カーディ)をまといチャルカを回すというガンディーの姿はその象徴だった。
(引用)ガーンディーは、不可触民制の問題を個人の内面の問題として捉え、「可触民」側の改心によって解決されなければならないと説いた。不可触民をヒンドゥー教徒の一員として受け入れなければならないとする彼の主張は、不可触民固有の被差別の問題を認めながらも、制度上それを別個に扱うことを拒否していた。そのため不可触民を別個の集団として扱うべきだとする被抑圧者階級概念の主張と真っ向から対立する。<鈴木真弥『カーストとは何か――インド不可触民の実像』2024 中公新書 p.46>

「ハリジャン」に対する批判

 ガンディーが不可触民を「神の子=ハリジャン」と呼んで、差別を解消しようとしたのは、あくまで彼らをヒンドゥー教徒として認め、差別する側も同じヒンドゥー教徒の問題と捉えたからであった。差別の解消は差別する側の意識の変革によるべきであると考え、またそれが可能であるとして説得の行脚を続けた。それは多くの人々の心を捉えたが、不可触民の中には異論を唱えるものもあった。それに対してアンベードカルは、自ら体験からガンディーのようなヒンドゥー教の信仰の枠内での差別解消はできないと考え、差別される側の直接的な抗議行動によって自覚し、不可触民の権利は政治的・経済的に保護されることで平等な社会になると主張したのだった。その思想は次第に反ヒンドゥー教に傾き、晩年には仏教に改宗するにいたる。

インド憲法での差別禁止

 インド独立直後にガンディーは狂信的なヒンドゥー教徒によって暗殺され、一方のアンベードカルはネルー政権のもとで憲法起草にあたることになり、1950年1月26日にインド憲法が施行された。その第15条でのカーストによる差別の否定(カースト制そのものを廃止したのではない)とともに、第17条で「不可触民制は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。」と明確に否定された。 → 憲法での不可触民の廃止
ハリジャンの呼称禁止 同時に不可触民に対して多面的な留保制度(優遇措置)が設けられた。憲法では不可触民とされた人々を「指定カースト」と呼び、具体的な法令でその範囲を指定することとなった。しかし、実際の指定では歴史的、地域的な違いが大きく、困難がともなっている。また彼らは自らは「差別されるもの」という意味で「ダリト」と言うことが多くなっている。また彼らは「ハリジャン」と言う呼称は差別する側の思いやりに過ぎないとして忌避するようになっている。1990年8月17日付インド中央政府福祉省省令で、政府文書におけるハリジャンの使用は禁止された。<藤井猛『インド社会とカースト』世界史リブレット86 2007 山川出版社 p.63>
*不可触民を「ハリジャン」と呼ぶことは禁止されたが、それは差別がなくなったからではない。現代インドでも不可触民は存在し、自らは「ダリト」ということが多くなっており、また憲法上では「指定カースト」と言われており、差別の問題は続いている。また憲法上も受けられている「指定カースト」に対する留保制度(優遇措置)が設けられているが、ヒンドゥー至上主義の中には留保制度は逆差別だとしてその廃止を主張しているものも多い。 →