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新インド統治法/改正インド統治法

1935年にインドに連邦制と地方政治で大幅な自治を認めた法律。国民会議派が州レベルで進出し、イスラーム教徒が少数派になったため新たな対立が起こった。

 1935年8月、イギリスが憲政改革調査委員会と3回にわたる英印円卓会議を経て作り上げた、1919年のインド統治法に代わる新しいインド統治法。1935年憲法ともいう。478カ条からなる「世界最長文の欺瞞的憲法」と評された。連邦制の導入と州政府での自治は認めたが、実際には様々な保留事項を設けて、自治は見せかけのものにすぎなかった。その主な内容は、
(1)藩王国も含めた連邦制の採用。
(2)中央政府においては両頭政治の確立。
(3)州では責任自治制の導入。
(4)総督、州知事は絶大な権限を保持。など

州政府の自治の内容

 立法権を持つ州議会は選挙で選ばれ、その多数党が州政府を構成し行政権を執行するとされたが、事実上は州知事(総督の任命するイギリス人)が自由裁量権と拒否権を持ち、しかも議会に責任を持たず議会に諮らずに法や条令を発布できた。選挙はインド史上初めて女性にも選挙権が与えられたが、有権者約3000万(うち女性は500万)は、総人口の11%に過ぎなかった。

新インド統治法のもとでのインド

 新インド統治法(1935年インド統治法)は、1930年3月に始まったガンディーによる塩の行進などに見られる第2次非暴力・不服従運動に対応して制定され、一定の自治を認めながら、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒、さらにカースト内ヒンドゥー教徒と不可触民を分断しながら統治しようというものであった。
 1937年に新インド統治法のもとでの中央立法府と州議会の選挙が実施されると、国民会議派は圧倒的な勝利を占め、11州中の7州で単独の州政府を実現させ、州レベルの自治を担うこととなった。この国民会議派の「与党化」に対して、ムスリム連盟はパンジャーブとベンガルでは多数を占めたが多くの州で少数派となったので「ヒンドゥー支配体制」の到来として危機感を持つようになった。
 第二次世界大戦を迎えると、イギリスは特にアジアの日本軍との戦争ではインドの協力が不可欠となったが、国民会議派とガンディーはインドを立ち去れ運動を開始、イギリスのインド統治は困難になっていった。一方でインド内部では統一インド全土の独立を主張するヒンドゥー教徒主体の国民会議派と、分離独立を主張するイスラーム教徒主体のムスリム連盟が激しく対立、内乱状態が続いた。これらの状況はイギリス国内でも早期のインド独立承認の声も強くなっていった。1945年8月に戦争は終結したが、インドの混乱は続いており、ただちに独立を実現することはできなかった。

インド独立法からインド共和国憲法へ

 戦後、イギリスアトリー内閣は 1947年2月20日に、来年6月までにインドを撤退すると発表し、「最後の総督」マウントバッテンを派遣、両派の調停にあたらしたが、結局分離独立を双方が受け入れ、政権譲渡は予定をめて同年8月15日とすることになった。それをうけてイギリス議会はインド統治法に代わり、インドの独立を承認するインド独立法の審議に入り、7月18日に成立させた。
 こうしてインド・パキスタンの分離独立が実行に移され、インドは8月15日に独立した。インド統治法に代わる基本法=憲法の制定が始まり、不可触民出身のアンベードカルが原案を起草し、制憲議会の審議を経て、1950年1月26日インド共和国憲法を制定した。インド共和国憲法は、普通選挙に基づいた大統領制と議会制度、基本的人権の確立など全く新しい原則を打ち立てるとともに、中央政府と州政府の設置、コミュニティー別の分離選挙など、1935年の新インド統治法を継承した部分も多かった。その面ではインド政治はイギリス植民地時代の形を一部残していると言える。
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