印刷 | 通常画面に戻る |

非暴力・不服従運動(第1次)

ガンディーが指導したインドの反英闘争。第1次独立運動ともいう。暴力的な手段を用いず、イギリスの植民地支配に服従しないことで抵抗し、自治、さらに独立を目指した。第一次世界大戦直後の1919年、イギリスがローラット法を制定したことに反発したガンディーの呼びかけで始まり、1920から22年に展開された運動を第一次独立運動と言い、1930年代に再び高揚した運動を第2次独立運動としている。

 イギリスの植民地支配に対する反英闘争のなかで、特に1919年に始まり、1920年代に展開された、ガンディーによって指導された非暴力と不服従を手段とした運動。ガンディーの指導した自治を要求する運動を総称して非暴力・不服従(non-violece,civil disobedience)運動というが、教科書によっては非暴力抵抗運動とか、サティヤーグラハ運動とも言われている。また戦術面から非協力運動とも言われることもある。大きく分けて、1919から22年までの第一次と、1930~34年の第2次非暴力・不服従運動との二度の盛り上がりがあった。

ローラット法が契機

 このうち第1次の運動は、イギリスが第一次世界大戦でのインドの戦争協力に対する見返りとして自治を約束したにもかかわらず、戦後の1919年ローラット法という人権を無視した運動取り締まり法を制定し、また自治については1919年インド統治法で一部の地方自治の承認にとどまったことに対する民衆の怒りから始まった。また運動の主力は国民会議派であったが、新たな指導者としてガンディーが登場した。ガンディーは1919年4月6日に全国的なハルタール(同盟休業)を提唱し、また断食などの非暴力によって抵抗を呼びかけた。しかしイギリス政府の弾圧によってインド民衆が多数虐殺されるというアムリットサール事件が起き、一次中断された。同年末にガンディーはイスラーム教徒のカリフ擁護運動であるヒラーファト運動との連携を提唱し、学校教育や選挙のボイコット、イギリス製品の排斥などに取り組んだ。

ヒラーファト運動との提携

 第一次世界大戦後の終結に伴い、連合国はセーヴル条約の過酷な要求をオスマン帝国のスルタン政府に突きつけ、カリフの権威は危機に陥った。その時、インドのイスラーム教徒(ムスリム)の中に、イスラーム世界の最高権威であるカリフを援護すべきであるという運動が起こった。それをヒラーファト運動(キラーファット)という。ガンディーサティヤーグラハを掲げて反英闘争を展開する上で好機と捉え、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒が協力してイギリスに対する新たな「非協力」戦術を提起した。国民会議派も1919年末、春に惨劇のあったアムリットサールで大会を開き、イギリスに対するあらゆる非協力を決定し、宗教の壁を越えて1920年~21年に「非協力運動」という反英闘争が盛り上がった。

1919年春、激動のアジア

 前年11月の第1次世界大戦の終結をうけ、1月のパリ講和会議から始まった1919年の春は、アジアにおいて立て続けに民族運動が爆発した。まず3月1日には朝鮮で日本からの三・一独立運動が起き、3月にはイギリス保護国のエジプト王国ワフド党が立ち上がり、4月6日にインドの反英闘争でハルタールが始まった。そして5月4日には中国に日本の二十一カ条の要求に対する反発から五・四運動が起こった。これらはアメリカ大統領ウィルソンが大戦中に提唱した十四カ条の原則の中に民族自決が含まれており、パリ講和会議でそれが実現するのではないかという期待のもとに起こされたものであった。しかし、4月に成立したヴェルサイユ条約ではそれらの声は押さえられ、アジアの植民地解放は実現せず、民族自決は東ヨーロッパのスラヴ系諸民族への適用にとどまった。

国民会議派の変質と運動の意義

 ガンディーの指導した第1次非暴力・不服従運動を通じて、インド国民会議派は、従来の親英的な知識人が主体となった、合法的な手段によってイギリス帝国内での一定の自治を認めさせることをめぐる政治討論の場としての存在から、中下層階級の市民、教師、役人から農民や労働者までを基盤とした大衆的な行動する政党へと転身したといえる。また、ヒラーファト運動との連携が成立したことは一時的ではあったが宗教の壁を越えた国民としての連帯が初めて出来上がったことを意味する。

運動の中止

 ガンディーの提起した非協力運動は、大衆にとって分かりやすいものであったので、直ちに全土に広がり、詩人タゴール(1913年にアジア人として最初にノーベル文学賞を受賞していた)もガンディーに協力したが、公立学校や外国製品ボイコットなど行き過ぎたナショナリズムに向かうことを危惧するようになった。他にも知識人の中には疑問視するものもいたが、ガンディーの名声は圧倒的に高まっており特に1920~21年にかけて最も盛り上がった。しかし、タゴールの危惧したように、高揚した民衆の中に次第に非暴力の枠を逸脱する者が現れた。
チャウリー・チャウラー事件 ついに1922年2月5日に連合州のチャウリー・チャウラーという村で警官の発砲に怒った民衆3千が警察署を襲撃、22名の警官を殺害するという事件が起きた。知らせを聞いたガンディーは大きな衝撃を受け、会議派に対して運動の中止を命じた。この突然の中止に多くの国民会議派の活動家はとまどい、民衆は憤激した。またムスリムは聖戦(ジハード)を放棄するものとして非難した。しかし、ガンディーの決意は固く、こうして大きな成果はなく収束に向かい、ガンディー自身も逮捕されて運動は終わった。

非暴力・不服従運動(第2次)

1930~34年に盛んだったガンディーの指導によるインドの反英闘争の第二波。「塩の行進」が行われた。

 1927年の憲政改革調査委員会(サイモン委員会)に対する反対運動から、インドの反英闘争が再び活発になり、「サイモン帰れ!」の声が高まった。国民会議派でも対抗して独自の憲法草案をつくることとなったが、「イギリス帝国内での自治領」の実現を目指す穏健派と、完全独立(プールナ=スワラージ)を求める急進派が対立し、またムスリムは国民会議派主導の憲法案が中央政府の権限を強くしていること反発し、ムスリムを分離させた連邦制を主張して対立した。このようにインド側の対立が深刻になったところで、ガンディーは運動を党派主導ではなく、大衆のものにしなければならないと苦慮し、「塩の運動」を着想することになる。

労働党政権と世界恐慌

 1929年6月、イギリスにマクドナルド労働党政権が誕生した。労働党はかねてインドの独立を認めることを掲げていたので自治実現の期待がふくらんだ。インド総督は「インド自治憲法を制定するために、円卓会議を開催する用意がある」と声明したが、議会内の保守党が猛反発し、政権の安定しない労働党は「自治憲法制定のため」の部分を取り消した。そこに起こったのが世界恐慌であった。経済不況の影響はインドにも及び、農村の困窮が進むと、さらに反英気運が高まった。

完全独立要求

 1929年12月、国民会議派のラホール大会では急進派のネルーを議長に選び、会議派の主張する「スワラージ」とは「「完全独立」(プールナ=スワラージ)」を意味すると宣言し、要求が入れられなければ翌30年1月26日をもって独立宣言すると通告した。

塩の行進

 1930年1月26日、全国各地で集会が開かれ、ガンディー起草の「独立の誓い」が朗読された。それを認めないイギリスに対して、ガンディーは抗議行動として塩税法への挑戦を提起した。生活必需品で天然物である塩に外国政府が税をかけているという不正を人びとに明らかにし、植民地支配の不当性を告発する行動であり、その「塩の行進」は多くの民衆の支持を受けた。それに加えて従来の官職や学校からの引き上げ、外国製品の不買、税金の不払いなどの非協力運動を展開し、ハルタール(同盟休業)とストライキの波は全国に波及した。 → 非暴力・不服従の実際の姿については塩の行進の項を参照。

イギリスによる弾圧

 イギリス官憲はガンディーの行動を非合法として5月4日に逮捕、続く数週間に10万人を逮捕した。インド中の監獄が逮捕者であふれ、劣悪な状態に置かれた。また、各地で発砲を伴う衝突も頻発、4月のペシャワール事件ではムスリムのパターン族の非暴力に対してイギリス軍が発砲し、数百の死者が出た。このとき、イギリス軍にいたヒンドゥー教徒のガルワーリー族兵士はデモ隊に発砲しなかったため武装解除され軍法会議で禁固刑とされた。これは「勇者の非暴力」と言われて後々の非暴力運動の典型とされている。一方で国民会議派の非暴力運動に飽き足らない過激派も各地で暴力事件を起こしており、イギリスはそれを口実にさらに過敏に運動全体を弾圧した。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.151-153>

英印円卓会議

 イギリスは弾圧と共に事態の沈静化にも動いた。1931年にインド総督アーウィンは初めてガンディーと単独会見し、塩の製造の許可、政治犯の釈放などを条件に運動を中止し、ガンディーの円卓会議参加をとりつけた(ガンディー=アーウィン協定)。総督がガンディーを交渉相手と認める画期的な出来事と言うことができる。その結果、同年8月のロンドンの第2回英印円卓会議に参加したガンディーは、インドの不可分な完全独立を主張した。しかしそこで議題とされたのはイギリスの提案による州議会選挙などでヒンドゥー、ムスリムに一定の議席を配分するという分離選挙制度であり、分割統治の策謀であったが、ガンディー以外のインド代表もその駆け引きに終始し、ガンディーは孤立、結論のないまま終わり、欺されたかたちとなったガンディーは、帰国後に運動の再開を指令した。それに対してイギリスは再びガンディーを逮捕した。

ガンディーのハリジャン運動

 獄中のガンディーはイギリスが分離選挙を拡大し、不可触民にも一定の議席を割り振ろうとしていることに対し、それが不可触民差別の固定化につながると考え激しく反発し、断食に入った。同調した全国のヒンドゥー教徒も分離選挙制に反対して請願し、イギリスは一応それを撤回した。しかし、不可触民の中にはアンベードカルなど、分離選挙を強く要求してガンディーに対立する勢力もあった。出獄後のガンディーは、インドの真の独立のためには、農村での不可触民への差別をなくし、平等で自立できる社会が必要と考え、不可触民をハリジャン(神の子)と呼んで全国を遊説してその解放と差別の不当を訴えた。このように社会運動に傾斜したガンディーに対し、インド独立という政治活動を優先すべきであるとするネルーチャンドラ=ボースの批判も現れ、国民会議派の指導部は混乱、1934年にガンディー自ら第2次非暴力・不服従運動の終結を指示した。