不可触民
インドのカースト社会で差別された最下層民。ジャーティ(世襲の職業集団)の中の特定の職種の人々が社会的、政治的に下層に置かれ、経済的にも貧しく教育・就職などでも長く差別の対象とされていた。現在のインドでは憲法でその存在は否定され、留保制度によって優遇されているが、現在も多くの問題が起こっている。ガンディーはその解放を目指しハリジャン(神の子)と呼んだが、現在ではダリトまたは指定カーストと言われている。
インドの紀元前1500年頃に成立したアーリヤ社会ではヒンドゥー教と結びついたカースト(インド本来のことばではヴァルナ)が形成され、祭司であるバラモンが最上位にあり、次いで戦士・貴族であるクシャトリヤが支配階級となり、その下に農耕民のバイシャが庶民層となった。さらにその下層に隷属民としてシュードラがカーストの第4層を構成していた。しかし、長い歴史の中でおおそ10世紀頃までにシュードラは社会的身分を向上させて、バイシャと同格の農民・手工業者として扱われるようになった。さらにヒンドゥー教社会の中に、ヴァルナとは別に世襲的な職業集団(ジャーティ)が生み出され、かれらは神聖なバラモンを頂点として、清浄と不浄(穢れ)という基準で序列され、最下層で不浄な仕事に従事する人々が差別の対象となっていった。
彼らはヒンドゥー教徒でありながら、同じ寺院での礼拝を拒否され、食事や飲み水でも避けられ、社会的・政治的に差別されただけでなく、教育や就職でも著しく不利であったから、経済的にも貧困であり、それがさらに差別の要因ともなって、彼らは不可触民=触れてはならない人々としてインド社会に定着していった。さらにインドを植民地支配したイギリスは、カースト社会のこのような秩序を容認し、ヒンドゥーとイスラームの違い、カーストの違いとともに、カースト民とそれ以外の不可触民の違いを自覚させ、それぞれへの帰属意識を持たせて戸籍に登録させることで、いわゆる分割統治をつくりあげていった。それまでは大まかで漠然としていたインド人のカースト帰属意識は、イギリスの植民地支配中で意図的に造られていった側面が強い。
ハリジャンは使われなくなっている かつてガンディーは、不可触民の解放を進めようとして彼らを「神の子」の意味の「ハリジャン」と呼び、差別する側の道徳的回心によって差別は解消されると考えた。しかし、アンベードカルなど不可触民側からそのことばは忌避された。現在では不可触民は政治的・経済的な諸権利を法的に保護されることで主体的な解放をめざすとされ、1990年8月17日付インド中央政府福祉省省令で、政府文書におけるハリジャンの使用は禁止された。<藤井猛『インド社会とカースト』世界史リブレット86 2007 山川出版社 p.63>
バクティ運動 カビールやナーナクの思想と運動に強い影響を与えたのが、7世紀半ばから9世紀半ばの南インドで興り、全インドに広がっていったバクティ運動だった。バクティとは唯一の最高神への帰依によって救済されるという信仰実践であり、それにはサンスクリット語を通したバラモン主体の運動と、民衆語による大衆的な運動の二つの面のうち、前者は次第に衰え、後者が下位カーストや不可触民に広く行き渡った。「神への絶対的な帰依により、カーストにかかわらずすべての人びとが平等に救済される」というその思想は、虐げられた人々に広く受け入れられた。しかし、バクティ運動は宗教的な平等を求めることにとどまり、不可触民の運動が20世紀から社会的・政治的な平等の要求へと進むと、次第に衰退した。<鈴木真弥『前掲書』 p.66-61>
ガンディーと同じ時期に、ガンディーとは対立しながら不可触民の解放運動を指導したアンベードカルは代々、ヒンドゥー教改革派のカビール派の熱心な支持者だった。
ガンディーが1930年3月12日に「塩の行進」を開始、第2次非暴力・不服従運動を展開すると、イギリスは妥協を図り、英印円卓会議の開催を提唱、1931年9月7日の第2回円卓会議にガンディーも出席た。しかし同じくインド代表として参加したムスリム代表とアンベードカルはそれぞれの分離選挙を要求、それに反対したガンディーは孤立し、退席した。その後インドで反英闘争を再開すると、逮捕され入獄した。
コミュナル裁定とプーナ協定 イギリスのマクドナルド挙国一致内閣は1932年8月、コミュナル裁定を出し、不可触民の分離選挙を認めた。それに対してガンジーは「死にいたる断食」を宣言して抗議、やむなくアンベードカルはガンディーとの間で1932年9月24日に「プーナ協定」を締結し、分離選挙の要求を取り下げ、その代わり、不可触民に対して政治的優遇(議席数の確保など)する留保制度を設けることで合意した。イギリスもそれを受け入れて1935年8月制定の新インド統治法では不可触民を「指定カースト Scheduled Castes 」と位置づけた。この1930年代の一連のイギリス植民地行政が導入した「指定カースト」の概念は、不可触民に優遇措置を講じるためその集団を公的に認知しようとするもので、これによって不可触民は「公定カースト」として位置づけけられたことになる。これは独立後のインド憲法に継承され「指定カースト」に対する「留保制度」の制定となる。
「不可触民制」は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。「不可触民制」より生ずる無資格を強制することは、法律により処罰される犯罪である。
「指定カースト」 インド憲法第341条は、大統領令によって、各州もしくは連邦直轄地ごとに不可触民差別を被ってきた歴史的経緯に基づき、不可触民のさまざまなカーストを指定カーストと認定する旨を規定している。重要なことは、認定が政治的に決定されることだ。341条の(2)では、国会が法律によって指定カーストの集団を追加または削除することを認めている。しかし、集団の認定基準は政治的判断によるところが大きく、変更をめぐってたびたび論争が起きている。
「留保制度」 指定カーストの認定を受けると、国会下院および州下院の議席や公職の留保、教育・経済面での優遇措置が国家によって講じられるので、集団にとってそのメリットは大きい。指定カースト枠は人口比に応じた保留枠として全国平均で約15%設定されている。このシステムを留保制度というが、このような差別と不平等に対する積極的差別是正措置(アファーマティヴ・アクション)と留保措置を憲法で規定していることはインド憲法の大きな特色となっている。
インド憲法が対象としている特定の被差別集団のカテゴリーは、次のように分けられる。
認定された指定カースト集団に属していることを証明するためには、居住地域の役所で申請手続きが必要になり、承認後、「カースト証明書 Caste Certicicate 」が発行される。指定カースト出身者に対すして、学校での奨学金、大学への進学、公務員の採用試験などで優遇措置がとられているので、それらの支援を受ける際にはこの証明書を提出しなければならない。
<鈴木真弥『カーストとは何か――インド不可触民の実像』2024 中公新書>は、筆者が2005年から2023年まで、インドやイギリスのインド人社会でフィールドワークを続け、不可触民の歴史と、差別の現状の最新情報を詳細に述べている。そのすべてを紹介することはできないので、学習を深めたい方はぜひ参照してください。
彼らはヒンドゥー教徒でありながら、同じ寺院での礼拝を拒否され、食事や飲み水でも避けられ、社会的・政治的に差別されただけでなく、教育や就職でも著しく不利であったから、経済的にも貧困であり、それがさらに差別の要因ともなって、彼らは不可触民=触れてはならない人々としてインド社会に定着していった。さらにインドを植民地支配したイギリスは、カースト社会のこのような秩序を容認し、ヒンドゥーとイスラームの違い、カーストの違いとともに、カースト民とそれ以外の不可触民の違いを自覚させ、それぞれへの帰属意識を持たせて戸籍に登録させることで、いわゆる分割統治をつくりあげていった。それまでは大まかで漠然としていたインド人のカースト帰属意識は、イギリスの植民地支配中で意図的に造られていった側面が強い。
現在の不可触民「ダリト」
不可触民という用語は、かつてインドを支配していたイギリス人が使った「アンタッチャブル」をそのまま日本語に訳して使っているわけだが、それには問題がある。現在のインドでは使われていないからだ。かつては英語で「アンタッチャブル untouchable 」あるいは「アウトカースト outcaste 」と呼ばれ、ヒンディー語では「アチュート」と呼ばれていたが、これらは現在では差別用語として忌避されており、当事者たちは自らをヒンディー語で「抑圧された者の意味である「ダリト」を基本的に使っている。またインド憲法では行政用語として「指定カースト Scheduled Castes CSs」とされている。<鈴木真弥『カーストとは何か――インド不可触民の実像』2024 中公新書 p.iii>ハリジャンは使われなくなっている かつてガンディーは、不可触民の解放を進めようとして彼らを「神の子」の意味の「ハリジャン」と呼び、差別する側の道徳的回心によって差別は解消されると考えた。しかし、アンベードカルなど不可触民側からそのことばは忌避された。現在では不可触民は政治的・経済的な諸権利を法的に保護されることで主体的な解放をめざすとされ、1990年8月17日付インド中央政府福祉省省令で、政府文書におけるハリジャンの使用は禁止された。<藤井猛『インド社会とカースト』世界史リブレット86 2007 山川出版社 p.63>
不可触民はなぜ生まれたか
前6世紀ごろからインダス川中流域の都市経済が発展するという社会的変動のなかで、ヴァルナ制では生産民とされていたヴァイシャの活動が主として商業へと傾いていった。そのため、農業や牧畜、手工業と言った肉体労働、つまり生産活動を担う階層が、第4階級のシュードラに移行していった。そうなるとシュードラのなかでヴァイシャに近づき得たものと、そうでないものの格差が広がり、より下層のものはヒンドゥー教で不浄とされた死、血、排泄などにかかわる職業(例えば動物の屠殺や皮革加工、清掃、選択などの雑役)の専業とされ、上位カーストから「触るのも汚らわしい(アチュート)」としてカーストから除外されるようになった。このような人々によって不可触民が形成されることによって、下位カーストであったシュードラは生産を担う庶民層として遇されるようになった。<森本達雄『ヒンドゥー教 -インドの聖と俗』2003 中公新書 p.142>不可触民制の成立
サンスクリット語で、触れてはならないものを意味する「アスプリシュヤ」という語が歴史資料で初めて見られるのは、紀元後100~300年頃に成立した『ヴィシュヌ法典』である。そして4~7世紀のあいだには、不可触民という身分概念、つまりは不可触民制が成立したと考えられている。<鈴木真弥『前掲書』 p.33>不可触民差別に対する批判
不可触民の存在は、カースト制度の定着とともにインド社会に固定化されたが、15世紀末から16世紀初めの宗教指導者カビールやその影響を受けシク教を創始したナーナクらは不可触民への差別を厳しく非難し、カーストにとらわれない人間の平等を説く人々も現れた。バクティ運動 カビールやナーナクの思想と運動に強い影響を与えたのが、7世紀半ばから9世紀半ばの南インドで興り、全インドに広がっていったバクティ運動だった。バクティとは唯一の最高神への帰依によって救済されるという信仰実践であり、それにはサンスクリット語を通したバラモン主体の運動と、民衆語による大衆的な運動の二つの面のうち、前者は次第に衰え、後者が下位カーストや不可触民に広く行き渡った。「神への絶対的な帰依により、カーストにかかわらずすべての人びとが平等に救済される」というその思想は、虐げられた人々に広く受け入れられた。しかし、バクティ運動は宗教的な平等を求めることにとどまり、不可触民の運動が20世紀から社会的・政治的な平等の要求へと進むと、次第に衰退した。<鈴木真弥『前掲書』 p.66-61>
ガンディーと同じ時期に、ガンディーとは対立しながら不可触民の解放運動を指導したアンベードカルは代々、ヒンドゥー教改革派のカビール派の熱心な支持者だった。
植民地政府による「認知」
19世紀半ばからインドはイギリス国王がインド皇帝を兼ねるインド帝国として直接統治するようになった。その中で不可触民をめぐる状況は、イギリス植民地支配によって大きく変わる。その動きの中で、不可触民という社会的身分が政治的に位置づけられたことと、不可触民側も権益を確保するために集団としてそうした状況を積極的に受け入れたこと、が重要な変化である。それは1930年代に次のような過程で定着した。<鈴木真弥『前掲書』 p.38 などによる>ガンディーとアンベードカル
インド独立を指導したガンディーは、ヒンドゥー教の熱心な信者であり『バガヴァッド=ギーター』などに示された不殺生(アヒンサー)の思想をもとにして、サティヤーグラハ運動を開始した。ガンディーは、カーストは(職業世襲によって社会が安定する側面によって)、西洋にはないインド社会に根付いている伝統として容認する寛容な面もあったが、不可触民に対しては彼らを「神の子」(ハリジャン)とよんでその解放を呼びかけた。しかしガンディーのハリジャン運動に対して、不可触民の出身であるアンベードカルは、自らの被差別体験からヒンドゥー教信仰に根付いた差別と闘うには、まず不可触民に政治的・社会的な保護を加えることが必要だと主張し、イスラーム教徒に対すると同じように分離選挙をイギリスに迫った。ガンディーが1930年3月12日に「塩の行進」を開始、第2次非暴力・不服従運動を展開すると、イギリスは妥協を図り、英印円卓会議の開催を提唱、1931年9月7日の第2回円卓会議にガンディーも出席た。しかし同じくインド代表として参加したムスリム代表とアンベードカルはそれぞれの分離選挙を要求、それに反対したガンディーは孤立し、退席した。その後インドで反英闘争を再開すると、逮捕され入獄した。
コミュナル裁定とプーナ協定 イギリスのマクドナルド挙国一致内閣は1932年8月、コミュナル裁定を出し、不可触民の分離選挙を認めた。それに対してガンジーは「死にいたる断食」を宣言して抗議、やむなくアンベードカルはガンディーとの間で1932年9月24日に「プーナ協定」を締結し、分離選挙の要求を取り下げ、その代わり、不可触民に対して政治的優遇(議席数の確保など)する留保制度を設けることで合意した。イギリスもそれを受け入れて1935年8月制定の新インド統治法では不可触民を「指定カースト Scheduled Castes 」と位置づけた。この1930年代の一連のイギリス植民地行政が導入した「指定カースト」の概念は、不可触民に優遇措置を講じるためその集団を公的に認知しようとするもので、これによって不可触民は「公定カースト」として位置づけけられたことになる。これは独立後のインド憲法に継承され「指定カースト」に対する「留保制度」の制定となる。
ガンディーのハリジャン運動
ガンディーは1930年代の第2次の運動の時期には、イギリス当局が不可触民に州議会選挙の別枠を与えるという分離選挙を導入しようとしたことに強く反対した。コミュナル協定で不可触民への分離選挙が導入されそうになったことで強い危機感を持ったガンディーは「死にいたる断食」に訴えてそれを阻止したが、プーナ協定でそれに代わる不可触民への議席での優遇策が認められた。ガンディーは不可触民に対して特定の保護が加えられることは、決してその解放にはつながらず、インド国民にヒントゥーとイスラムだけでなくさらに分断を持ち込み、かえって差別を固定化することになると、深く憂慮した。彼は、「ハリジャン」という雑誌を刊行し、各地を一人で歩きまわり、農村のヒンドゥー教徒に不可触民=ハリジャンの解放を訴えた。しかし、独立後に暗殺され、その後の不可触民解放の道筋は、アンベードカルらの不可触民に選挙や就職、教育で一定の保護を与えるという留保制度への方向に向かっていった。憲法による不可触民制の廃止
インド・パキスタンの分離独立後、インドでは不可触民解放運動の指導者だったアンベードカルが起草に加わったインド共和国憲法が1950年1月26日に施行された。この憲法では第15条で「カーストによる差別は禁止する」と定められ、第17条では、次のような条文があって不可触民制は否定された。「不可触民制」は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。「不可触民制」より生ずる無資格を強制することは、法律により処罰される犯罪である。
「指定カースト」 インド憲法第341条は、大統領令によって、各州もしくは連邦直轄地ごとに不可触民差別を被ってきた歴史的経緯に基づき、不可触民のさまざまなカーストを指定カーストと認定する旨を規定している。重要なことは、認定が政治的に決定されることだ。341条の(2)では、国会が法律によって指定カーストの集団を追加または削除することを認めている。しかし、集団の認定基準は政治的判断によるところが大きく、変更をめぐってたびたび論争が起きている。
「留保制度」 指定カーストの認定を受けると、国会下院および州下院の議席や公職の留保、教育・経済面での優遇措置が国家によって講じられるので、集団にとってそのメリットは大きい。指定カースト枠は人口比に応じた保留枠として全国平均で約15%設定されている。このシステムを留保制度というが、このような差別と不平等に対する積極的差別是正措置(アファーマティヴ・アクション)と留保措置を憲法で規定していることはインド憲法の大きな特色となっている。
インド憲法が対象としている特定の被差別集団のカテゴリーは、次のように分けられる。
- 言語的・宗教的マイノリティ(少数派)としてのアングロ・インディアン(ヨーロッパ人と混血者)
- 指定カースト Scheduled Castes SCs もと不可触民とされた諸集団(コミュニティ)
- 指定部族 Scheduled Tribes STs 山地など隔絶された地域に居住し固有の文化を持ち、社会経済的に後身とされるコミュニティー
- その他の後進諸階級 Other Backward Classes OBSs 2,3以外で教育や雇用などで国家が優遇措置を講じる社会的・教育的に遅れた階層
指定カースト・留保制度の実際
インド憲法での議席の留保制度は、1950年の施行時点では10年間の時限付きであったが、たび重なる憲法改正によって今日まで続いている。集団の認定の対象や特別措置は変更・拡大されるため、選挙のたびに政治問題化する。憲法で規定された指定カースト集団は、各州・連邦直轄地ごとにリスト化され公表される。例えばデリー連邦首都直轄地では36のカースト集団が指定されている。認定された指定カースト集団に属していることを証明するためには、居住地域の役所で申請手続きが必要になり、承認後、「カースト証明書 Caste Certicicate 」が発行される。指定カースト出身者に対すして、学校での奨学金、大学への進学、公務員の採用試験などで優遇措置がとられているので、それらの支援を受ける際にはこの証明書を提出しなければならない。
ダリト集団の例
ダリト(不可触民)が担っていた職種はまず人間の死に関わることがある。死は不吉なこととされ、訃報を伝える使者や争議での楽隊などもダリトとされた。また生命活動による排泄、廃棄物、血液との接触などが避けられない職種、屎尿処理・清掃・洗濯・出産などが含まれる。このような職種は不浄なものとされてそれを生業とする集団が差別された。それだけでなく、ヒンドゥー教の観念では不浄や穢れは伝染すると考えられていたから、その集団との通婚、付き合い、接触は忌避された。さらに食事をともにすること、同じ水を飲むことも許されない。食事の慣習では一般のヒンドゥー教徒が豚肉を嫌い、飲酒をしないのに比べ、ダリトが豚肉料理と飲酒をすることも差別の理由となっている。主な指定カーストには次のような集団がある。- 屎尿処理人カースト 全国で5万8098人(2021年)が認定されている。中央政府と各州政府は彼らへの差別を解消するために、水洗トイレの普及に努力しているが、順調に進んでいないという。また屋外での排泄慣行の撲滅を進める「クリーンインディア」キャンペーンも行われている。
- 清掃カースト 屎尿処理に加え清掃業、下水清掃などを生業としている集団。インド内に約1469万人と推定され、さらに多くのサブ・カーストに分かれている。北・西インドの政争カーストはバンギーといわれ、広く知られている。同様に多くのサブ・カーストに分かれている。
- 皮革産業 動物の死体処理もダリトが担っていた。自然死した牛を解体しそこから得られた肉や皮はダリトの取り分とされたので、皮革産業に従事するダリトが多かった。
現在の差別問題
現在でもインド社会では「アウトカースト」と言われる人たちが存在し、自らをダリト(またはダリット)と称しており、有形無形の差別が続いている。ダリトの人口はおよそ2億人といわれ、インドの人口の16.6%(2011年国勢調査)をしめ、日本の人口を上回っている。制度や政策の面では、彼らに対する国会・地方議会議席での留保、就職、教育、奨学金、補助金などでの優遇策(アファーマティヴ=アクション)が実施されて、差別解消の方策が採られているが問題は継続している。<鈴木真弥『カーストとは何か――インド不可触民の実像』2024 中公新書>は、筆者が2005年から2023年まで、インドやイギリスのインド人社会でフィールドワークを続け、不可触民の歴史と、差別の現状の最新情報を詳細に述べている。そのすべてを紹介することはできないので、学習を深めたい方はぜひ参照してください。
Episode インドの経済成長とダリト問題
現代のインドでも、不可触民はダリットと言われて厳しい差別の現実があること、インドの経済の高度成長のなかで彼らのなかで起業家として成功したものもいることを、朝日新聞(2010年4月26日~30日「神の子たちの経済成長」)で伝えている。その一部を引用しておこう。(引用)インドの商都ムンバイ(ボンベイ)。100年の歴史を持つビジネス街「バラード・エステート」には、インドを代表する財閥企業の本社が立ち並ぶ。カースト制度=キーワード=の最底辺の階層ダリット出身の女性カルパナ・サロジさん(52)は、この一角の名門非鉄金属会社カマニ・チューブの再建をまかされ、2006年から議長をつとめる。カルパナさんは12歳で七つ年上のダリットと結婚させられ、ムンバイのスラムに住んだ。暴力をふるう夫に耐えかねて1年で村に戻ったが、家族から逆に責められた。殺虫剤のボトルを3本飲んだ。意識が戻ったとき、待っていたのは家族の非情な言葉だった。「死んでくれた方が家族の名誉だったってね。あのとき、私はカーストの絆(きずな)を離れ、一人で生き抜こうと決意しました」ムンバイに戻り、靴下工場で懸命に働いた。30代半ば、わずかな貯金と国営銀行が起業家を育成しようと始めた無担保融資で家具店を始めた。転機は、不動産業への転身だった。1996年に50万ルピー(約100万円)で買った土地が10倍にはねあがった。01年に住宅ビルとして売り出したら4500万ルピー(約9千万円)の値がついた。床掃除や汚物処理を職業とするダリットが不動産業を始めたことへの反発は大きかった。同業者は上位カーストのクシャトリアが多く「ダリットに土地を売るな」と申し合わせていた。ナイフを持つ暴漢に襲われたこともあった。だが、ひるまなかった。多くは語らないが、政治家との間で築いたコネが、力を発揮した。「死ぬ覚悟さえあれば、何でもできるわ」カマニ社の再建は、手腕を聞きつけた経営陣が直々に頼み込んできた。その行方に経済界の注目が集まる。<朝日新聞 2010.4.26 「神の子たちの経済成長」第1回(高野弦)>