英印円卓会議
イギリスが提唱しインドの代表も参加した、インドの自治に関するロンドンでの会議。1930年11月の第1回、翌31年9月の第2回、32年11の第3回が開催された。イギリスの狙いはインドの完全独立要求を抑え、一定の自治付与で終わらせようとしたが失敗した。ダンディーは第2回に出席したが、イスラーム教徒代表、不可触民代表と対立して帰国した。裁定はイギリスにゆだれ慣れたため、32年8月にマクドナルド首相がコミュナル裁定を発表した。
インドの反英闘争は第一次世界大戦後に急速に高揚し、1930年1月には「「完全独立」(プールナ=スワラージ)」が宣言され、ガンディーに指導された塩の行進を始めとする第2次非暴力・不服従運動が展開された。
イギリスのねらいは国民会議派のガンディーなどを抱き込み、懐柔するところにあったが、成功しなかった。ロンドンにインド代表を招いて、第1回は1930年11月~31年1月、第2回は31年9月~12月、第3回は32年11~12月に行われた。国民会議派は第1回はボイコットしたが、第2回にはガンディー自身が出席した。ここで深刻な対立が明確になったのはカースト問題といわれたが、実質的には不可触民の扱いであった。
ガンディーは冒頭に「国民会議派はイスラーム教徒を議長や運営員にしているが故にイスラーム教徒も代表している。政治綱領で不可触民制の廃止も謳っているが故に不可触民も代表している。藩王国のためにも尽力し、会議派には婦人の会員も多い故にインド婦人を代表している。私はその会議派の総代表であるが故に、私こそインド国民の代表である」と挨拶し、会議に各コミュニティーの代表が個別に召集されていることを批判した。こうして会議は少数コミュニティ問題で最初から紛糾したが、アンベードカルらはコミュニティー代表であることを譲らず、マクドナルド首相もそれを支持した。<ダナンジャイ・キール/山際素男訳『アンベードカルの生涯』2005 光文社選書 p.132-141>
ガンディーは自分こそがインドを代表する唯一の代表であり、完全自治の早期実現をひたすら要求したが、議題は宗派・階層ごとにどのように議席を分配するかというようなコミュナリズム問題にすり替えられ、宗教団体や政党の駆け引きに終始してしまった。この分離選挙制度は、イギリスの分割統治を狙った策謀であったが、アンベードカルはここでも不可触民の政治的権利を実現する手段として分離選挙を要求した。イギリスの巧妙な分裂工作が図に当たった格好で、ガンディーは裁定をイギリスに委ねることに合意し、得るところなくインドに帰った。帰国後、非協力運動の再開を指令すると、イギリス当局はガンディーを逮捕、裁判なしで投獄した。
イギリス政府のねらい
イギリスの現地当局は対応に苦慮していたが、本国の保守層にはインド支配を堅持すべきであるとの意見も根強かった。しかし、折から1929年の世界恐慌の影響がイギリスにもおよび、ヨーロッパではナチス=ドイツが台頭するという情勢の中で、イギリスは植民地経営において妥協しなければならない状況が出はじめていた。本国政府も一定の妥協が強いられ、イギリス主導で自治に関する話し合いを提唱することとした。イギリスのねらいは国民会議派のガンディーなどを抱き込み、懐柔するところにあったが、成功しなかった。ロンドンにインド代表を招いて、第1回は1930年11月~31年1月、第2回は31年9月~12月、第3回は32年11~12月に行われた。国民会議派は第1回はボイコットしたが、第2回にはガンディー自身が出席した。ここで深刻な対立が明確になったのはカースト問題といわれたが、実質的には不可触民の扱いであった。
第1回円卓会議
1930年11月から翌年1月までロンドンで開催された。会議は89人、内訳はイギリス三政党代表16名、インド側は各界代表と20州の代表合わせて52名、それにイギリス政府代表、インドの藩王国代表などが加わって構成された。インド代表にはリベラル派ヒンドゥー教徒とされるテジ=バハーズール=サプルー、シュリベストリ=シャストリ、C.Y.チンタマニら、イスラーム教徒からH.M.アーガー=ハーン、ジンナーら、他にヒンドゥー・マハーサバー、シク教徒、クリスチャンの代表がおり、アンベードカルは不可触民の代表として参加した。しかし、インド民族運動の最大勢力であるインド国民会議派とその指導者ガンディーは参加を拒否した。インド内部の反応は、国民会議派を支持し、会議に参加した会派に対する非難が強かった。会議はマクドナルド首相が司会し、イギリスの狙いである一定の自治の付与のもとで各コミュナルの連合による連合国家の形成へと論調が主導された。不可触民代表のアンベードカルは中央の議会及び地方議会において、不可触民の議席枠を設ける分離選挙を主張した。第2回円卓会議
1931年に入り、イギリスは事態の打開を図り、国民会議派の「非合法」を解き、総督アーウィンが直接ガンディーと交渉、政治犯の釈放や塩税の廃止を約束して「塩の行進」は中止され、ガンディーは初めて英印円卓会議に参加することにした。第2回会議は1931年9月7日に始まったが、やはり何ももたらさなかった。ガンディーは冒頭に「国民会議派はイスラーム教徒を議長や運営員にしているが故にイスラーム教徒も代表している。政治綱領で不可触民制の廃止も謳っているが故に不可触民も代表している。藩王国のためにも尽力し、会議派には婦人の会員も多い故にインド婦人を代表している。私はその会議派の総代表であるが故に、私こそインド国民の代表である」と挨拶し、会議に各コミュニティーの代表が個別に召集されていることを批判した。こうして会議は少数コミュニティ問題で最初から紛糾したが、アンベードカルらはコミュニティー代表であることを譲らず、マクドナルド首相もそれを支持した。<ダナンジャイ・キール/山際素男訳『アンベードカルの生涯』2005 光文社選書 p.132-141>
ガンディーは自分こそがインドを代表する唯一の代表であり、完全自治の早期実現をひたすら要求したが、議題は宗派・階層ごとにどのように議席を分配するかというようなコミュナリズム問題にすり替えられ、宗教団体や政党の駆け引きに終始してしまった。この分離選挙制度は、イギリスの分割統治を狙った策謀であったが、アンベードカルはここでも不可触民の政治的権利を実現する手段として分離選挙を要求した。イギリスの巧妙な分裂工作が図に当たった格好で、ガンディーは裁定をイギリスに委ねることに合意し、得るところなくインドに帰った。帰国後、非協力運動の再開を指令すると、イギリス当局はガンディーを逮捕、裁判なしで投獄した。
マクドナルドのコミュナル裁定
マクドナルド挙国一致内閣は、1932年8月17日に、第2回円卓会議で紛糾した選挙制度問題に決着をつけるべく、「コミュナル裁定」(マクドナルド裁定)を発表した。これは従来の分離選挙制をさらに強化したもので、選挙区の数を、ヒンドゥー教徒・ムスリム・シク教徒・英印混血児・ヨーロッパ人・被抑圧階級・インド人キリスト教徒・商工業者・地主ならびに資本家・労働者・大学関係者・婦人の十二に細分するもので、ヒンドゥ教徒以外の少数者に多くの議席を配分すると同時に、ヒンドゥー社会をカースト内とアウト=カースト(不可触民=被抑圧階級)に分断するものであった。つまり、インド側が要求を統一できないでいる以上、イギリスが裁定するしかないとし、しかもこの段階でもインド社会のコミュナリズム問題を利用して、分割統治を維持しようとした。Episode ガンディーに対するチャーチルの感情
英印円卓会議が開催されることになったが、イギリス保守党の政治家、チャーチルが、「ガンディー氏が……(イギリス国王の)代表と対等の資格で話し合うために、副王宮の階段を素足で上がっていく……と考えると吐き気を催す」と述べているように、インドに対する蔑視はぬきがたいものがあった。ガンディーの「死にいたる断食」での抵抗
マクドナルド内閣による「コミュナル裁定」でアンベードカルの主張する不可触民への分離選挙が認められたことに対して獄中にあったガンディーは激しく反発した。1932年9月20日に「死にいたる断食」を宣言して断食を開始した。この命をかけた広義に対して、同じインド人であるアンベードカルは動揺し、ついに分離選挙の要求を取り下げた。両者の間で9月25日にプーナ(プネー)協定が結ばれ、不可触民への分離選挙は認めずに合同選挙とするが、そのかわり特定の選挙区での保留議席(あらかじめ一定の議席を与える)の数を増やすことで合意した。ガンディーの必死の抵抗で分離選挙は回避されたが、不可触民の議席を留保することはすでに始まっていたイスラーム教徒への留保議席とともに、1935年に新インド統治法に採用され、さらにそれを基本とした留保制度は戦後の独立後のインド共和国憲法にも踏襲されることとなる。第3回円卓会議
1932年11月17日、第3回英印円卓会議が開催されたが、代表団は縮小され、国民会議派の欠席も多く、会議は低調だった。アンベードカルは出席したが、イスラーム教徒の分離独立の主張が明白となり、中央政府を樹立するという目標は困難な状況となった。イギリス政府も恐慌対策とドイツ賠償問題でかかりきりでインド問題には熱意を失ったようで、積極的な成果のないまま12月24日に閉会した。