批林批孔運動
中国の文化大革命の過程で林彪事件の後、毛沢東の下で江青らによって提唱され、1974年1月に開始された、林彪と孔子思想を批判する運動。その攻撃目標は周恩来に向けられていた。
1966年8月1日に始まったプロレタリア文化大革命は、毛沢東による文化面での反革命・守旧的思想の批判にとどまらず、時の国家主席劉少奇を走資派として批判するという権力闘争の側面が強かった。紅衛兵を先頭とする激しい大衆運動によって1968年までに劉少奇らは打倒され、1969年には毛沢東の後継者として林彪が指名されるところまで到達し、そこで終了するとさえ思われた。毛夫人の江青をリーダーとする張春橋、姚文元、王洪文の四人グループは、いずれも上海を基盤としていたので上海グループとも言われたが、彼らは文化大革命の理念を「毛沢東思想」として持ち上げ、ブルジョア反動路線・修正主義に対するプロレタリア階級の永遠の階級闘争を継続する必要があると、理論づけ、また党の広報部門を握って革命を推進していた。林彪が毛の後継者として副主席に指名されると、江青はそれを支持し、密接な関係を保ったが、毛沢東の信任の地位では第二位であることを甘んじた。
林彪事件(9・18)後、中国共産党内部には、毛沢東・江青・四人組らの文化大革命を維持し、継続革命を続けなければならないという路線と、周恩来・鄧小平ら実務官僚は文革の行き過ぎを是正し、国内秩序と経済を回復しなければならないという路線の対立が生じた。
さらに単純化してまとめれば、林彪事件後に生まれた共産党内部の路線対立の中で、毛沢東・江青ら文化大革命の階級闘争継承を唱える側は林彪を「極右」と見なし、周恩来ら実務官僚など革命の終結、是正を図ろうとする側は林彪を「極左」と見なした。そのなかで毛沢東・江青は林彪を極右と攻撃することで周恩来らの見方を否定する意図があった、ということになろう。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』下 1996 岩波書店初版 p.66-75 などによる>
毛沢東は周恩来が実務を処理する姿は如才ない儒家の典型と見えた。その周恩来が林彪を極左と見ることによって右派からの巻き返しが強まる恐れがあると考えた。林彪は極右であり、その思想基盤は国民党とも同じ儒家思想だ。そう考えた毛沢東は1973年5月、党中央工作会議で「批孔」を提起した。それを受けた四人組の王洪文、張春橋らは孔子批判の材料収集を開始し、歴史学者や哲学者を動員して論文を書かせた。9月4日の『北京日報』に掲載された論文では、孔子は「吾は周に従わん」と言い、周を理想化しているが、その国は封建国家であり、「周礼」(周の官制を記した書で儒教の経典の一つ)を定めた周公は奴隷制社会の政治代表だった、と論じた。もちろんここでいう周とは古代王朝としての周のことであるが、周恩来にあてこすったのだった。また四人組は林彪の遺品のメモ類から孔子を礼賛している部分を強引に見つけ出し、林彪も孔子崇拝者だったと強調した。こうして「批林」と「批孔」を結びつけた「批林批孔」は、周恩来を批判する一石二鳥の言葉として動き出した。<厳家祺・高皋『同上書』 p.75-79>
このころすでに周恩来は病状が進行、ガンが全身を浸食し始めていた。1974年1月~6月に入院し手術を受けたが、入院中も仕事を休まなかったという。一方、毛沢東の健康も悪化しており、老人性白内障のため片方のめの視力はほとんど失っていた。こうして老人二人は、互いに相手の名を直接告げずに病床で、まさにどちらが先に死ぬか、という戦いを続けた。
それを妨害しようとした江青と四人組は、学生の中にある試験制度の復活や教師の権威に対する反発を利用した。河南省南陽地区唐河県馬振扶公社中学の2年生1組の15歳になる女子学生張玉勤は、英語の試験で白紙答案を出し、答案の裏に「私は中国人。なぜ外国語を学ばなくてはならないの。ABCDを習わなくとも、革命の後継者になれる。革命をしっかりと受け継ぎ、帝国主義、修正主義反動派を葬れる」と書いた。学校側からすぐに叱責された彼女は河に飛び込んで自殺した。この事件は『人民日報』で広く報道され、教育正常化という修正主義教育路線での「試験制度」の復活による犠牲だ、と指摘された。これを受けて「修正主義教育路線反対」や「師道の尊厳反対」などのスローガンを掲げた中学生の運動がひろがった。
林彪事件と四人組
ところが、2年後の1971年9月に林彪がクーデタに失敗してモンゴルで墜落死するという林彪事件がおこるという不可解な事件が起こった。この事件の真相はいまだに明らかにされていないが、それによって毛沢東の権力に続く勢力として明確になったのが、江青とその仲間だったので、党内では毛沢東をはじめ、彼らを「四人組」と呼んで警戒するようになった。林彪事件(9・18)後、中国共産党内部には、毛沢東・江青・四人組らの文化大革命を維持し、継続革命を続けなければならないという路線と、周恩来・鄧小平ら実務官僚は文革の行き過ぎを是正し、国内秩序と経済を回復しなければならないという路線の対立が生じた。
周恩来・鄧小平の路線
1972年5月から党中央は「批林整風」を開始し、林彪一派の残党の一掃にとりかかった。すると江青はそれまでの態度を一変させて、自分は林彪に迫害されていた、と言いだし批判に同調した。林彪事件の前後から、中国の外交は大きく変化していた。それはソ連との関係悪化に反比例してアメリカとの関係正常化を実現しようという動きであり、それはニクソン側からの働きかけもあって急速に進み、1972年2月にニクソン訪中が実現した。そのころ毛沢東はすでに病気がちであったこともあって、外交折衝の実務はもっぱら周恩来があたった。周恩来は外交面での実務にあたっただけでなく、文化大革命によって混乱した中国の政治体制や経済を再建することに取り組み始めた。1973年には鄧小平を復活させて国内の経済再建にあたらせた。この周恩来と鄧小平は「四つの現代化」をめざす基本方針により脱文化大革命をはかろうとするものであったので、江青ら四人組にとっては大きな危機であり、文化大革命および自らの権力を継続させるためには周恩来・鄧小平とは対決せざるを得なくなった。林彪批判の意図
林彪失脚後、毛沢東に代わって実務を任された周恩来総理は、林彪を文革中の「極左」的な誤りであると見てそれを是正しようと表明した。それに対して江青ら四人組は、林彪は「極右」であり、周恩来が「極左」を正そうとしているのは「右からの巻き返し」を謀ろうとしているのだと批判、主張した。党の宣伝部門を握る四人組はさかんに林彪を「極右」の誤りであると宣伝する林彪批判を繰り返した。その意図は、周恩来が林彪を極左と位置づけることで右派の巻き返しを狙っているととらえ、それに警戒せよと呼びかけるものであった。つまり、林彪を極右として批判することで、周恩来の右からの巻き返しを阻止するのが狙いだったと言える。このように直接、周恩来を名指しするのではなく、林彪を極右として批判することで、左派の四人組の立場を明白にし、周恩来こそ右からの巻き返しをねらっていると批判することになるのだった。さらに単純化してまとめれば、林彪事件後に生まれた共産党内部の路線対立の中で、毛沢東・江青ら文化大革命の階級闘争継承を唱える側は林彪を「極右」と見なし、周恩来ら実務官僚など革命の終結、是正を図ろうとする側は林彪を「極左」と見なした。そのなかで毛沢東・江青は林彪を極右と攻撃することで周恩来らの見方を否定する意図があった、ということになろう。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』下 1996 岩波書店初版 p.66-75 などによる>
孔子批判の意味
健康を回復した毛沢東も、江青らの働きかけを受け、周恩来・鄧小平の動きを警戒するようになった。毛沢東は江青らに同調して林彪を「極右」と見ることで周恩来の路線を批判したが、さらに周恩来を牽制するために考え出したのが、孔子を批判することで周恩来を実質的に批判することであった。なぜ孔子批判が周恩来を批判することになるのだろうか。毛沢東は周恩来が実務を処理する姿は如才ない儒家の典型と見えた。その周恩来が林彪を極左と見ることによって右派からの巻き返しが強まる恐れがあると考えた。林彪は極右であり、その思想基盤は国民党とも同じ儒家思想だ。そう考えた毛沢東は1973年5月、党中央工作会議で「批孔」を提起した。それを受けた四人組の王洪文、張春橋らは孔子批判の材料収集を開始し、歴史学者や哲学者を動員して論文を書かせた。9月4日の『北京日報』に掲載された論文では、孔子は「吾は周に従わん」と言い、周を理想化しているが、その国は封建国家であり、「周礼」(周の官制を記した書で儒教の経典の一つ)を定めた周公は奴隷制社会の政治代表だった、と論じた。もちろんここでいう周とは古代王朝としての周のことであるが、周恩来にあてこすったのだった。また四人組は林彪の遺品のメモ類から孔子を礼賛している部分を強引に見つけ出し、林彪も孔子崇拝者だったと強調した。こうして「批林」と「批孔」を結びつけた「批林批孔」は、周恩来を批判する一石二鳥の言葉として動き出した。<厳家祺・高皋『同上書』 p.75-79>
批林批孔運動
孔子の集団である儒家は始皇帝の時に厳しい弾圧を受け、焚書坑儒が行われた。その時、孔子批判の側に立ったのが法家の思想家だった。毛沢東は自らを儒家を批判し法家を支持した始皇帝に重ねていた。毛沢東の「尊儒反法」批判は「批林批孔」運動として周恩来批判に転化する内容であり、それに沿った「あてこすり歴史学」の論文が溢れることとなった。1974年1月1日人民日報以下の各紙社説は「批林批孔」で一色になった。1974年1月18日、党中央は江青らが編集した「林彪と孔子・孟子の道」を毛沢東の批准を経て採択し、全国に通達、批林批孔運動が公式の全国運動として開始された。25日は北京工人体育館で「批林批孔」動員大会が開催され、周恩来も出席を求められ、江青以下の四人組が口々に林彪・孔子を批判するのを聞かされた。このころすでに周恩来は病状が進行、ガンが全身を浸食し始めていた。1974年1月~6月に入院し手術を受けたが、入院中も仕事を休まなかったという。一方、毛沢東の健康も悪化しており、老人性白内障のため片方のめの視力はほとんど失っていた。こうして老人二人は、互いに相手の名を直接告げずに病床で、まさにどちらが先に死ぬか、という戦いを続けた。
Episode 1974年北京、学校破壊事件
江青らが周恩来攻撃の材料の一つにしたのが、学校教育正常化問題だった。周恩来は文革の行き過ぎから中国の再興させるにあたって、破壊された学校教育の再建が急務だと考えた。特に大学における科学技術研究と教育が文革によってストップしたことは、中国の発展に取り返しのつかないマイナスだと考え、大学教育の再開、中断されたままの入試の再開、それに向けて中等教育から初等教育までの学校教育の整備に着手した。それを妨害しようとした江青と四人組は、学生の中にある試験制度の復活や教師の権威に対する反発を利用した。河南省南陽地区唐河県馬振扶公社中学の2年生1組の15歳になる女子学生張玉勤は、英語の試験で白紙答案を出し、答案の裏に「私は中国人。なぜ外国語を学ばなくてはならないの。ABCDを習わなくとも、革命の後継者になれる。革命をしっかりと受け継ぎ、帝国主義、修正主義反動派を葬れる」と書いた。学校側からすぐに叱責された彼女は河に飛び込んで自殺した。この事件は『人民日報』で広く報道され、教育正常化という修正主義教育路線での「試験制度」の復活による犠牲だ、と指摘された。これを受けて「修正主義教育路線反対」や「師道の尊厳反対」などのスローガンを掲げた中学生の運動がひろがった。
(引用)1974年初め、中学生はまるで文革初期の学生のように、再び造反に立ち上がった。一夜のうちに、北京市の小・中学の窓ガラスはほとんど割りつくされ、教室の机や椅子も多くが破壊されて、教師は授業をするすべがなく、学校は混乱に陥った。だが江青一派のある人は、これを「18世紀のラッダイト運動と同じ革命行動である」と言った。確かに江青一派にとっては、こうしたことすべてが周恩来の教育整頓に対する最良の反撃であり、また彼らが張り巡らしている周恩来包囲網をより強化するものであったので、賞賛するのも当然だった。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』下 1996 岩波書店初版 p.80-81>