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アルゼンチン

南米大陸の南部、アンデス山脈の東側に広がるラプラタ川流域の広大な草原地帯を占める、ラテンアメリカの大国。スペイン領のラプラタ副王領から、クリオーリョが中心となって1816年、独立を宣言した。

 この地は、スペイン植民地時代はラプラタ副王領とされていた。ブエノスアイレスはその副王都市として発展した。1816年に独立を宣言した当初も、「ラプラタ諸州連合(ラプラタ連邦)」という国家としてであった。1862年に連邦共和制となった時、スペイン語の国号「ラ=プラタ」を嫌い、同じ銀を意味するラテン語のアルヘントゥムに基づき、アルゼンチン(現地の発音ではアルヘンティーナ)に改めた。

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アルゼンチン(1) アルゼンチンの独立

19世紀初めクリオーリョによる独立運動が起き、1816年にスペインからの独立を宣言した。アルゼンチンのサン=マルティンはさらにチリ、ペルーなどの独立を指導した。

アルゼンチン GoogleMap

 副王都市ブエノスアイレスは、貿易港として18世紀から急速に発達し、現時生まれの白人であるクリオーリョの商人が独立を求めるようになった。1806~07年、ブエノスアイレスに侵攻したイギリス軍を民兵が撃退して自信を深め、1810年にはナポレオン時代のスペイン本国の混乱を機に副王を追放した。1810~20年代に続いたラテンアメリカ諸国の独立の中で、1816年に独立を宣言、ラプラタ地域の諸地方を統合して「ラプラタ諸州連合(ラプラタ連邦)」として独立を宣言した。

忘れられた建国の英雄

 この独立戦争で活躍した軍人の一人がサン=マルティンであった。彼は北方から独立を脅かすスペインのペルー副王を倒すため、大遠征を立案、1817年に新政府からその全権を与えられ、アンデスを越えてチリに入り、1818年2月にチリの独立を宣言、さらに北のペルー副王領に進撃して、1821年7月、リマに入城してペルーの独立を宣言した。しかし、ペルーの統治に失敗、シモン=ボリバルからへの援軍要請も断れ、アルゼンチンに戻ったが、国内にその基盤はなく、フランスに渡って客死した。サン=マルティンは生前には評価されなかったが、1880年代にラテンアメリカ諸国の独立に尽くした人物として再評価され、アルゼンチンでも英雄視されるようになった。

カウディーリョ体制

 独立後のアルゼンチンは、大都市ブエノスアイレスと、大農園を基盤とした地方の農村部との対立を内包し、国家運営は安定しなかった。1824年にはラプラタ河口の地方をめぐってブラジルと戦争となり、28年にイギリスの仲介によってその地をウルグアイとして独立を認めることで講和した。
 アルゼンチンも他のラテンアメリカ地域と同じように、カウディーリョと言われる軍事的地域ボス出身者が中央政界でも力を占め、民主主義は根付かず、独裁政治の温床となった。アルゼンチンでは、1832~52年の間大統領となったロサスが典型的なカウディーリョとして独裁的な圧政を行った。

アルゼンチン(2) ペロンのポピュリズムから軍政へ

19世紀後半、農業・畜産業が盛んとなり移民も増大。1943年、国民的人気を背景にペロンの長期政権始まる。その後、1976年にクーデタによって軍事政権が生まれ、83年まで続く。

ラプラタからアルゼンチンへ

 1862年に連邦共和制となり、スペイン語の国号ラ=プラタを嫌い、同じ銀を意味するラテン語のアルヘントゥムに基づきアルゼンチン(現地の発音ではアルヘンティーナ)に改めた。

牧畜業の発展

 アルゼンチンは広大な草原パンパでの牧畜業が盛んであったが、距離が遠すぎる難点があり、干し肉に限定されたためヨーロッパ向けの輸出はその大きな需要に応えきれなかった。ところが、1870年代にフランスで冷凍船が発明され、80年代にイギリスで実用化され、急速にアルゼンチン産の冷凍牛肉がイギリスに輸出されるようになった。イギリスは資本をアルゼンチンに投下し、内陸と結ぶ鉄道を敷設しブエノスアイレスに冷凍工場を建設した。こうしてアルゼンチンは食肉や穀物、砂糖などの原料をイギリスなどのヨーロッパに輸出することで大いに発展し、人口も急増した。その反面、イギリス資本への従属に不満を持つ民族感情も生まれていった。

Episode 母を訪ねて三千里

 アルゼンチンは独立以来、ヨーロッパからの積極的な移民の受け入れを行った。特に19世紀後半は、イタリアからの移民が急増した。アミーティスの『クオーレ』(1886)で紹介された「母を訪ねて三千里」はジェノバの少年マルコが、イタリアに働きに行った母を探して一人旅する物語であった。物語は、マルコがジェノバからの船に乗ってアルゼンチンで大変な苦労をするが、行く先々でイタリア人に助けられ、ブエノスアイレスから奥地のトゥクマンまで旅していく。<デ・アミーチス/和田忠彦訳『クオーレ』2007 平凡社ライブラリー p.314>

ペロンの登場

 産業の発達、人口の増大はそれまでのカウディーリョによる独裁政治を支えていた地主層に替わって、中間層を成長させ、彼らは次第に民主政治の実現とイギリスからの経済的独立を要求するようになった。また、都市の労働者も増加し、労働組合運動も活発になっていった。第二次世界大戦中の1943年、時の独裁政権の選挙不正に怒りが爆発し、軍部がクーデタを起こすと、その首謀者の一人ペロン大佐が労働福祉庁長官に就任して次々と労働者の権利を認める改革を行って急激に人気を上昇させた。1946年、ペロンは大統領選挙に圧勝して55年まで長期政権を維持し、労働者保護、産業国有化、対米従属を拒否した自主外交を展開し、国内にも多くの支持者が現れ、彼らはペロニスタ(ペロン党)と言われた。

参考 マドンナ演じるエヴァ=ペロン

ペロン人気を支えた一因は、その貧しい歌手から大統領夫人になったエヴァ=ペロンにもあった。また、大衆的人気をテコに政権を運用する政治手法は、ポピュリズムとも言われる。ペロン大統領の人気を支えたエヴァ=ペロン(愛称がエビータ)を、あのマドンナが演じたミュージカル仕立ての映画が『エビータ』である。マドンナの素晴らしい歌声と、戦後まもないころの大都会ブエノスアイレスの様子を楽しめる、素晴らしい作品です。

ポピュリズムと軍事政権

 1955年、ペロンのカトリック教会に対する政策などに不満な保守派が軍隊と結んでクーデタを起こし、ペロンは国外に亡命した。その後のアルゼンチンは、保守派・軍部と革新派・ペロニスタとのめまぐるしい政権交代が続き、1973年にはなんと18年ぶりにペロンが大統領に選出されて復活した。しかし翌年すぐに病死し、後継大統領には夫人のイサベラ=ペロン(エヴァは1952年に死んでおり、イサベラは後妻)が就任した。イサベラは統治能力がなく失政が続いたため、76年またまたクーデタが起こって軍事政権が成立した。

軍政下の人権抑圧

 1976~1983年までの7年間、アルゼンチンにはビデラ大統領・ガルチェリ大統領の軍事政権が続いた。この軍事政権は、ペロン党(ペロニスタ)や左派政党を徹底して弾圧し、政治犯として逮捕、その多くが裁判なしに闇の中で殺害された。軍事政権による「左翼狩り」によって、約3万人が犠牲になったとされているが、まだその全面的な真相は明らかになっていない。ペロン政権を支えた労働総同盟も、79年の新労働組合法で解散させられた。第二次世界大戦後の先進国では考えられない人権抑圧が行われていた。これは「アルゼンチンの汚い戦争」とも言われている。

Episode 五月広場の母親たち

 エピソードとするには深刻な話題であるが、1976~83年のアルゼンチンの軍政下で、人権抑圧に抗議して立ち上がった母親たちがいた。1977年4月13日の土曜日、ブエノスアイレスの大統領官邸前の五月広場に14人の母親が集まった。彼女たちは行方不明になった息子たちの身を案じてあつまったのだった。この日に始まり、新聞広告による政府告発や、そのための募金運動などを展開した。政府の激しい弾圧を受け、この運動の参加者のなかからも行方不明者が出たが、人権抑圧を国際的にアピールし、民政移管を促した草の根的運動として意義は大きい。<『ラテンアメリカを知る事典』p.163 「五月広場の母親たち」の項 1987 平凡社>

参考 映画にみる軍政下のアルゼンチン

 1985年に製作されたアルゼンチン映画『オフィシャル・ストーリー』(ルイス=プエンソ監督作品)は、1977年のアルゼンチン軍事政権下のもとでどのようなことが起こったか、を告発している映画だと言うが、残念ながら見ていない。DVDも現在は販売されていないようだ。日本ではほとんど話題にならなかったが、アカデミー賞の最優秀外国映画賞と主演のノルマ=アレアンドロが女優賞を受賞している。そのノルマ=アレアンドロが出演した2009年の作品、『瞳は静かに』(原題は「アンドレスはシエスタなんかしたくない」)は同じく1977年の出来事を子どもの目を等して描いた作品で、こちらはDVDで見ることができる。秘密警察による監視が家族生活を引き裂いていくことになるのだが、かわいらしい主人公のアンドレスがの1年の中でどのように変化していくのか、南半球らしい真夏のクリスマス風景や、柔道の稽古のシーンなどを織り込んで淡々と進んでいくのだが、ときおりドキッとさせられシーンが出てくる。子どもの目で時代を描いたものにはスペイン戦争を舞台とした『蝶の舌』、エルサルバドル内戦を題材とした『イノセント・ボイス』などとともに秀作にはいると思う。

アルゼンチン(3) 民政移行と経済危機

1982年、イギリスとのフォークランド戦争に敗北、軍政終わり民政に移管する。2001年に経済危機を迎える。

フォークランド戦争

 軍事政権を引き継いだガルチェリ大統領は、国民のインフレの進行などの経済的不満を外に逸らすため、1982年、イギリスが実効支配している南大西洋のフォークランド諸島(アルゼンチンはマルビナス諸島と呼ぶ)に侵攻し、フォークランド戦争(マルビナス戦争)を引き起こした。この戦争はイギリスのサッチャーの強硬姿勢のために敗北し、ガルチェリ大統領は人気急落、次の大統領は民政移管を約束せざるを得なくなった。

民政移管と財政状況の悪化

 軍事政権のガルチェリ大統領は辞任し、民政に戻ることを約束、1983年に大統領選挙が行われ、軍人ではないアルフォンシンが当選し、7年ぶりに民政が復活した。しかし、軍政時代に累積した債務超過による財政不安とインフレは依然として慢性化しており、経済不安はさらに厳しくなっていった。
 1988年にはブラジルとともに南米南部共同市場を結成し、地域経済連携を強めた。独立以来敵対関係にあったブラジルとの関係を改善したことは、軍政からの転換の成果であった。こうしてアルゼンチンはラテンアメリカの大国の一つとして重要な存在となっている。

2001年の経済危機

 1990年代のアルゼンチン政府(ペロン党右派のメネム大統領)は新自由主義経済政策を採用し、年金まで民営化して市場経済化を進めた。しかし一方で国債依存による放漫財政を続け、債務がふくらみ、2001年に債務不履行(デフォルト)に陥った。政府は財政危機を切り抜けるため、国際通貨基金(IMF)から巨額の融資を受けることになったが、その条件として緊縮財政の実施(公務員給与の削減)、銀行預金の引き出し制限などが求められた。2001年末、政府がそれに応じようとすると、人々は預金が引き出せなくなることを知り、銀行に押しかけ、取り付け騒ぎが起こった。支払い不能に陥った銀行に対して民衆の怒りは爆発し、首都ブエノスアイレスで暴動が発生、白昼堂々、略奪が横行し、人々はデパートやスーパーを襲撃した。事態を収拾できずに内閣が次々と交替、なんとわずか2週間で5人もの大統領が入れ替わった。
新自由主義経済の失敗 1990年代のアルゼンチンは「模範的な発展途上国」としてもちあげられ、IMF世界銀行の「構造調整プログラム」を受け入れて国営企業の民営化、関税の引下、公共事業の廃棄などを推し進め、低失業率、ドル相場へのペッグ(固定化)によって安定した通貨と力強い外国投資を謳歌し、その数年は新自由主義経済学の正しさが立証されたかのように見えた。しかしIMFが新規融資の見返りとしてさらに厳格な緊縮財政政策の実施を要求したことからアルゼンチン経済の雲行きは怪しくなった。2002年1月、主要都市での暴動が数ヶ月続き、1410億ドルという巨額の公的債務のデフォルト(不履行)を決めた。第5代大統領の就任してわずか2週間足らずだったドゥアルデ大統領は人々の預金引出しを制限、ペソのドルペッグ制を廃止すると、数時間のうちにペソの価格は3分の一も下落した。「アルゼンチンは破産状態で、おしまいだ」と大統領は認め、こう続けた。「この<新自由主義的な>モデルが何もかも台無しにした」。<マンフレッド・B・スティーガー/桜井公人他訳『新版グローバリゼーション』2010 岩波書店 p.62-63">

左派政権による経済回復

 2003年、左派(ペロン党左派)のキルチネル政権がそれまでの新自由主義経済政策を止め、富裕層優遇の停止、貧困の救済、社会的不正の根絶などに務めた結果、経済も持ち直した。
キルチネル大統領 ネストル=キルチネル Kirchner 大統領は父親がスイスからの移民(ドイツ語読みでキルヒナー)。大学卒業後弁護士となりペロン党に属し、軍事政権に対する抵抗運動で2度投獄された。同じペロン党のメネム大統領時代の90年代には地方の州知事として地域経済の復興に努め、メネムの新自由主義に反対した。2001年にメネム政権が債務不履行に陥った後、2003年に大統領に当選、新自由主義と決別する経済政策により、雇用の安定、貧困層の救済に努めてアルゼンチン経済を回復させた。また、軍政時代に反政府活動で犠牲になった人々を救済し、名誉を回復するなど人権派としても積極的な施策を実行した。2007年には妻のクリスティーナが大統領に当選、彼自身は2010年に心臓発作で死去した。キルチネル政権は、同時期に登場したベネズエラのチャベスブラジルのルーラなどとともに、南米大陸におけるアメリカと新自由主義の退潮をもたらした人物である。 → ラテンアメリカの現在

(4) 現在のアルゼンチン共和国

2001年の経済危機を克服。2003年から左派政権が続いた。2007年から前大統領の妻キルチネルが大統領となり、ペロン政権の労働者保護政策を継承して人気を高めたが、独裁的な手法も批判を受けるようになった。

 アルゼンチン共和国は南米大陸でブラジルに次ぐ大国。世界でも第8位で人口は約4千万。国土の多くはパンパという草原に覆われ、南部のパタゴニア地方は、人口も希薄である。西にはアンデス山脈が南北に連なり、チリとの国境となっている。首都はブエノスアイレス。公用語はスペイン語。ラテン音楽の一つのジャンルであるタンゴの発祥の国である。
 他のラテンアメリカ諸国と比べてイタリア系移民が多いなど、民族感情はラテンアメリカ意識が弱く、ヨーロッパに近い感情が強いと言われている。現代のアルゼンチンの代表的なサッカー選手、リオネル=メッシもイタリア系。
アルゼンチン国旗 アルゼンチンの国旗 1810年5月25日、独立戦争に決起した日に、長雨が一変して太陽が輝いた故事を図案化し、1816年の独立のときに制定された。アルゼンチン国旗のライトブルーは、中米諸国のホンジュラス、ニカラグァ、エルサルバドルでも用いられている。<辻原康夫『国旗の世界史』河出書房新社 p.27-28>

ブエノスアイレス

 アルゼンチンの首都ブエノスアイレス  Buenosu Aires は、スペイン語で「良い空気」の意味で、温暖で雨も少ない、暮らしやすい都市として知られる。スペイン人がラプラタ川河畔に建設した港町で、植民地時代から南米大陸の玄関口の港として栄えた。ブエノスアイレス市民を「港の人」の意味でポルテーニョといい、彼らは都会的で文化水準が高いという自意識が強く、内陸人(プロビンシアーノ)をさげすむようなところがあるという。
ボカ ブエノスアイレスの南東には古い港町ボカ(ラ=ボカ)があり、ヨーロッパ(特にイタリア)からの移民が押し寄せたのがこの港だった。ボカで始まった音楽にアルゼンチン=タンゴがある。また、ヨーロッパのスポーツであるサッカーが、アルゼンチンをはじめ南米大陸にひろがったのは、ボカからであった。今でもアルゼンチンのプロサッカーチームであるボカ=ジュニアーズがよく知られている。

Episode アルゼンチン=タンゴ

 19世紀に急増したイタリアからの移民は、ブエノスアイレスの南東にある港町、ボカ Boca に上陸した。ボカとはラプラタ川の支流リアチュエロ川の「河口」という意味だ。この港にやってきたイタリア人にはジェノバ人が多く、やがてこの地に居着いた人々が好んだ音楽から、タンゴが生まれた。どうやら貧しい移民たちが、憂さを晴らすために歌ったり踊ったりしながら、様々な音楽が溶け合って、1880年頃にはタンゴの音楽と踊りのスタイルが生まれたらしい。農作物や牛肉の輸出で大いにアルゼンチン経済が繁栄した1940年代に世界的に大流行した。日本でも1950年代までは大衆に受け入れられた。独裁者ではあったが労働者保護を打ち出して人気のあったペロンがタンゴを推奨したことも大流行の一因だった。
 しかし、1960年代以降はアルゼンチン経済の停滞と歩調を合わせて、タンゴ人気は徐々に下火になった。最近ではダンス音楽としてのタンゴよりも、モダンタンゴと言われる演奏主体のタンゴに復興の兆しがある。

2014年の経済危機

 2007年、前大統領キルチネルの妻のクリスティーナ=フェルナンデス=キルチネルがアルゼンチン史上初の女性大統領として当選。彼女は従来の貧困層への手厚い支援を続けて支持を集めながら、リーマン=ショックにも影響されずに堅調な経済成長を維持していた。ところが、2014年にアメリカのヘッジファンド(私的に大口投資家から資金を集め高額な配当を狙って投資を請け負うファンド)が、2001年に債務不履行となった債権を買い取り、新たに債務支払いを求めてアメリカの裁判所に提訴した。アメリカの裁判所がヘッジファンドの訴えを認めたため、アルゼンチン政府は新たな支払い義務が生じたが、キルチネル大統領は防衛的措置として「計画的債務不履行」を宣言し、アメリカ及びヘッジファンド対アルゼンチン政府という、新たな金融戦争の状況となった。

キルチネル独裁政治

 しかしクリスティーナ=フェルナンデス=キルチネル大統領は政権党である正義党(ペロン党)を率いて手厚い社会保障と公共事業への投資を両立させ、アメリカと対立するという外交姿勢も民衆の支持を受けて圧倒的な強さを発揮するようになった。その頭文字を取ってCFKと呼ばれるキルチネルは、みずからも「現代のエビータ」つまりエヴァ=ペロンの再来と称し、大衆的人気を得た。それに対して保守層・富裕層は、ばらまき政策によるポピュリズムだとして非難したが、2015年の大統領選挙では腹心のフェルナンデスを立て当選に導き、みずからは副大統領に収まった。

NewS 狙われた「現代のエビータ」CFK

 2022年9月1日、アルゼンチンの副大統領クリスティーナ=フェルナンデス=キルチネル(通称CFK)が銃撃されるという暗殺未遂事件が起こった。自宅前で支持派の群衆の握手に応じているさなか、犯人がピストルを突きつけ30センチの距離から引き金を引いたが、銃弾は不発で副大統領は難を逃れた。犯人は捕らえられたが貧しいブラジルからの移民で、当局は背後関係はないと発表した。副大統領は、10月の大統領選挙を控えての反対派による犯行だと主張したが、人気を高めるための自作自演ではないか、という声もある。
 アルゼンチンではクリスティーナ=フェルナンデス=キルチネルが2007年に夫のキルチネル大統領の後継者として当選以来、2015年に大統領の座を腹心の現職に譲ったものの、副大統領として実権を持ち続けていることに不満が高まっている。CFKは、労働者保護、貧困対策、年金増額などの「ペロニズム」といわれるかつてのペロン大統領の社会運動を継承して、一定の支持を常に受け、政権を維持してきたが、その政策を大衆迎合のポピュリズムであり、経済成長を阻害しているという保守派・富裕層、財界からの批判も強まっている。また政権の運用が独裁的であり、そのため汚職や不正が蔓延しているとして、民主化を求める若い層も成長してきた。アルゼンチンは、CFKを支持するか、支持しないかで二分されているという状況下で、銃撃事件がおきた。<朝日新聞 国際面連載「狙われた現代のエビータ」2023/8/30~9/2 により構成>

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