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デモス

古代ギリシアのアテネで、前508年にクレイステネスの改革で設置された行政単位。民主政の基礎となった。

 アテネクレイステネスの改革の10部族制度を支えた行政単位。「区」に該当し、デーモスとも表記する。アテネの支配領域であるアッティカ全土を139のデモスに区画した。自然村落を基盤として編成され、デモスには区長がいて区民登録名簿を管理した。この区民名簿に記載された18才に達した成人男子は市民資格が認定されたことになり、民会への出席が認められた。いわば区役所が戸籍兼選挙人登録原簿を管理するのと同じである。
 ポリス市民の全体会である民会とは別に、デモスでは区民総会が開催されて日常的な問題の解決に辺り、またクレイステネスの時に設置された五百人評議会の議員を選出する母体でもあった。
 デモスの設置後は、市民はアッティカ内のどこに居住しようとも、その祖先が区の創設時に登録された区の区民とされ、これによってアテネ市民は、それまでの「誰々の子の誰々」という習慣に代わって「何々区のだれだれ」とよばれるようになった。<太田秀道『スパルタとアテネ』1970 岩波新書 p.130/前沢伸行『ポリス社会に生きる』p.40 などによる>
 古代アテネのデモスは、もともと村落を意味していたが、「民衆」を意味する言葉でもあり、クレイステネスの改革以来、民主政の基本単位とされたことから、民主政 Democracy という言葉が生まれ、現在のデモクラシーという言葉につながっている

デモスの変質

 デモスに登録されて市民権が認められる条件は、ペリクレスが前451/450年に制定した市民権法によって、両親ともにアテネ生まれであることとされた。このようはアテネ市民団の閉鎖性が共同体意識を支えていた。しかしペロポネソス戦争(前431~404年)を契機に、その戦後の社会的状況には変化がうまれてきた。アテネ以外のポリスでも同じように、外国人との通婚が多くなり、市民権の条件が揺らいできたのだ。アテネではあらたに外国人との通婚を禁止する法を制定したが、各デモスでの不正入籍が増えていった。前4世紀に経済の復興が急速に進み、アテネは東地中海交易の中心地として繁栄し、その繁栄は外国人商人に依存するようになった。デモスの閉鎖性もそのような変化の影響を受けて動揺・変質せざるを得なかったとおもわれる。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と衰退』2004 講談社学術文庫 p.267-270 などを参照>
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1章2節 カ.民主政へのあゆみ