印刷 | 通常画面に戻る |

ペロポネソス戦争

前5世紀の終わり(前431年~404年)、ギリシアの二大ポリス、アテネとスパルタの対立から起こった戦争。スパルタの勝利に終わったが、長期化によりポリス社会は衰退に向かった。トゥキディデスの『戦史』に記録された。

 ペルシア戦争(前500~前449年)の最終段階、サラミスの海戦でアテネ海軍の活躍でギリシアのポリス連合軍は勝利を占めた。海軍力を新調させたアテネは、ペルシアの再襲来に備えて、エーゲ海域の諸ポリスと攻守同盟であるデロス同盟を結成し、その盟主として全ギリシアから東地中海一帯の海上までその支配を拡大していった。すでにスパルタはペロポネソス半島の諸ポリスとの間にペロポネソス同盟を結成していたが、アテネの勢力拡大に強い警戒感をもつようになった。
 こうしてギリシアはアテネを中心としたデロス同盟諸国と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の対立というあらたな段階に入り、両陣営は前431年に戦争に突入、27年間にわたって続いた戦争は404年に講和して終わった。両軍の戦いは、ギリシア本土とエーゲ海全域にわたり、さらにエーゲ海上から遠く西地中海のシチリア島まで及んでいる。
 アテネとスパルタはギリシアの覇権を争う二大ポリスであったが、アテネが典型的な民主政を発展させたポリスであったのに対し、それに対してスパルタは貴族政(寡頭政)のもとで、貴族の中から王を選び、少数の貴族階級が多くの半自由民(ペリオイコイ)と奴隷(ヘイロータイ)を抑えるために軍国主義を採っているというように、国家体制に大きな違いがあった。

アテネとスパルタの戦い

戦争の要因 トゥキディデスの『戦史』の伝えるところでは、前435年ギリシア本土西北岸のギリシア人植民都市エピダムノスで起こった党争にからんで、コルキュラとコリントが対立、アテネがコルキュラを支援したのでコリントはペロポネソス同盟の同盟国であるスパルタに支援を要請したことから始まったという。しかし、開戦の要因は、勢力の伸張の著しいアテネに対して、スパルタが強い脅威を感じたことにあった。
開戦 前431年、スパルタ王アルキダモスの率いるペロポネソス同盟軍がアテネの本拠アッティカ地方に侵入して長い戦争が始まった。守勢に立ったアテネでは周辺の住民もアテネ市内に籠城し、ペリクレスは海軍力で反撃しようとする。開戦1年目、ペリクレスはこの戦いをポリス民主政を守る重大な戦いだと市民に訴える大演説を行った。しかしその年、アテネは想定外の疫病が蔓延、翌429年までに人口の3分の1が失われてしまう。ペリクレスは将軍職を罷免され、二人の息子も疫病で亡くし、自らも倒れてしまう。
ニキアスの平和 ペリクレス死後、アテネは主として戦利品の分け前を欲求する下層民に支持された主戦派と、戦費負担の重さに苦しむ富裕市民を中心とした和平派が対立したが、主戦派のクレオンなどの主戦派が主導権を握り、前425年にはスパルタの近くのピュロスに上陸してスパルタに迫った。あわてたスパルタが講和を申し込んだがクレオンはそれを拒否、和平の機会は失われた。逆襲したスパルタはアテネの要衝トラキア西部に進出し、主戦派のクレオンが戦死したためようやく講和となり、前421年に和平派のニキアスの主導により「ニキアスの平和」が実現した。
アテネのシチリア遠征失敗 しかし、アテネでふたたび主戦論が台頭し平和は約8年しか続かなかった。アテネで登場した主戦派はアルキビアデスという弁舌の達者な野心家であった。そのころシチリア島で同盟国セゲスタがアテネに援軍を要請してきた。アルキビアデスはこれにこたえてシチリアに出兵しようと主張し、ニキアスは反対したが、遠征熱に駆られた市民がアルキビアデスを支持し、艦隊派遣が決定された。前415年、重装歩兵を載せた艦隊130余隻の大艦隊がシチリアに向かったが、アテネでは不吉な出来事が続いて不安がつのり、アルキビアデスを召喚することになる。召喚命令を受けたアルキビアデスはこともあろうに敵国スパルタに亡命する。前413年、代わってアテネ海軍はニキアスが指揮官となってスパルタとシチリアのシラクサの連合軍と戦ったが、上陸した部隊は捕虜となって石切場に閉じこめられ、全員が餓死し、ニキアスも戦死してしまった。
スパルタ=ペルシア同盟の成立 さらにスパルタはアルキビアデスの入れ知恵でアッティカ北部を占領し、冬期も撤退せずアテネを脅かした。シチリアでのアテネの敗北を知ったイオニアのデロス同盟諸国が離脱すると、スパルタはイオニア諸国へのアケメネス朝ペルシア帝国の保護権を認める代わりにその資金援助を受けるというスパルタ=ペルシア同盟を結んだ。その資金でスパルタは海軍を増強、次第に制海権を握ってアテネの穀物輸送路を抑えたため、前404年にアテネは全面降伏した。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』2004 講談社学術文庫版 などによる>

トゥキディデスの『戦史』

 ペロポネソス戦争の歴史については、アテネの市民トゥキディデスの『戦史』に詳細に記録されている。トゥキディデスは富裕なアテネの市民であり、また一時は将軍として出征したが、作戦に失敗して追放され、所有するトラキアに鉱山に隠棲して戦争の推移を見守り、叙述を続けた。その特徴は、後半に史料を集めながら、厳しい史料批判を行い、客観的な事実を究明しながら、この未曾有の戦争の原因と経過を論述しようとしている点である。ペリクレスの演説、アテネの疫病の流行、アテネ海軍のシチリア遠征失敗などが詳細に述べられており、第一等の史料となっている。久保正彰氏訳の岩波文庫三冊でその全貌を読むことができる。<トゥキディデス『戦史』上・中・下 久保正彰訳 岩波文庫>
なお、ペロポネソス戦争の最中、アテネのシラクサ遠征が失敗に終わった後の前411年に上演された喜劇がアリストファネスの『女の平和』である。その中で、アテネを無残な敗北に導いた政治指導者を批判している。

ペロポネソス戦争の影響とその後のギリシア

 この戦争でポリス社会がすぐに崩壊したわけではなく、スパルタやコリントテーベなど有力ポリスがその後も交替し、戦争勃発からほぼ1世紀後の前338年のカイロネイアの戦いでマケドニア軍がギリシアをほご制圧されるまで続く。しかし、この27年にわたる戦争によってギリシアのポリス社会は大きく変質し、その全盛期が終わって衰退期に入る契機となったことも確かである。特にアテネを中心とした主な情勢は次のようなことが挙げられる。
・戦争の長期化によって市民が没落し、ポリス民主政の基盤がくずれていった。
・そのため戦争の主体も市民による重装歩兵から、傭兵に移行していった。
・アテネでは一時は寡頭体制がとられ、民主政は復活したがデマゴーゴスが多くなった。
・アテネの海上帝国は崩壊し、デロス同盟も解体、ポリス世界の覇権はスパルタに移った。
・スパルタはペルシア帝国と同盟したため、ペルシアのギリシア干渉が再び強まった。
 → ポリスの衰退

アテネの疫病流行

 戦争開始翌年の前430年、アテネに疫病(ペストと考えられている)の大流行が起こった。ペリクレスは戦争にそなえてアテネ人をアテネに移住させていたので市内の人口は過密になっており、真夏の炎天下、疫病が蔓延し、神殿と言わず、路上と言わず死体がころがっているという状態となった。ペリクレス自身も二人の子供をペストでなくし、ついに自らも一年後に死んだ。(もっともこの「アテネのペスト」とは、「悪疫」の意味で、いわゆるペストではなく、天然痘であるという説明もある。)<村上陽一郎『ペスト大流行』1983 p.12 岩波新書>)
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
1章2節 ク.ポリスの変質
書籍案内

トゥキディデス『戦史』上
久保正彰訳 岩波文庫

伊藤貞夫
『古代ギリシアの歴史』
2004 講談社学術文庫