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ペルシア戦争

前5世紀前半、アケメネス朝ペルシア帝国とギリシア都市国家連合との戦争。ギリシア人植民市のイオニアの反乱から始まり、ほぼ4次にわたりペルシア軍が陸路・海路からギリシアに侵攻したが、アテネ・スパルタなど諸ポリス連合軍がそれを撃退、戦後は特にアテネでの民主政が確立した。

アケメネス朝とギリシア・ポリス連合軍の戦い

 紀元前500年から前449年にいたる約50年間に、4回にわたって展開された、ギリシアのアテネを中心とするポリス連合軍と、アケメネス朝ペルシアの戦争。ペルシアが支配権を持っていたイオニア地方のギリシア人植民市がペルシアの支配に不満を持って前500年(前499年とする場合もあり)に起こした、イオニアの反乱が始まりで、ペルシアのダレイオス1世(大王)はそれを鎮圧したが、援軍を送ったアテネなどのギリシアのポリスに対し、大遠征軍を送った。前492年の第1回遠征は暴風のため失敗したが、その後前490年からの第2回、前480年からの第3回とギリシアに遠征軍を送った。一時はペルシア軍がアテネを占領し、世界帝国の膨張の前にギリシアのポリス世界も最大の危機を迎えた。しかしギリシアはアテネを中心にポリスの連合軍が陸上では重装歩兵・密集部隊戦術で、海上戦ではアテネ海軍の三段櫂船戦術でよく戦って優位を占め、ペルシアは主導権を取れなかった。
 なお、このときペルシア海軍の主力となったのはフェニキア人であり、地中海の交易権をめぐり常にギリシアと対立していたフェニキアはこのときペルシアに協力した。従ってペルシア戦争は一面、ギリシアとフェニキアの戦闘という面もある(事実、前479年にはフェニキア人の植民都市カルタゴの海軍が、シチリアのギリシア人植民都市シラクサを攻撃し失敗している)。
 結局前479年の第4回遠征では、ペルシアは陸上と海上で敗れ、ギリシアから撤退し、イオニア地方の独立は認められた。その後もペルシアは再征の機会をねらい、ポリスの対立をあおるなどギリシアに干渉を続けるが、前449年、アテネのペリクレスの時にカリアスの和約を結んで終結した。
 後にマケドニアのフィリッポス2世はペルシアへの報復をかかげてギリシアを統一、その子アレクサンドロスが東征を行い、前330年、アケメネス朝ペルシアは滅亡する。
 ペルシア戦争の経緯を記述し、ギリシアの偉大な勝利の記憶を後に残すために著されたのがヘロドトスの著した『歴史』である。西欧史を中心とした従来の日本の世界史教科書では、このギリシア人の視点からペルシア戦争という用語を無批判に使ってきているが、もちろんペルシア側でペルシア戦争と言ったわけではない。そこで、世界史用語の見直しの中ではギリシア戦争 the Persian War ではなく、ギリシア=ペルシア戦争 the Greco-Persian War という表記も使われるようになっている。<阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』2021 中公新書 p.108-110>

ペルシア戦争の意義

 一般的にオリエント的専制に対するポリス民主政社会の勝利とされる。この勝利によってアテネを中心とするギリシアのポリス民主政が完成される。専制政治に対する民主政治の勝利、という意義付けは近代および現代の価値観と合致するが、単純に普遍化することが出来ないことは言うまでもない。
 ギリシアの勝利と言っても、ペルシア帝国の侵入を阻止したと言うことであり、ペルシア帝国が敗北して直ちに滅亡したのでないことに注意する。その後もペルシア帝国は勢力を維持し、たびたびギリシアに介入している。ギリシアのポリスの中にもペルシア帝国の力に従うものもあり、それがペロポネソス戦争の一因であった。ペルシア帝国の滅亡は、百年以上後の前330年、アレクサンドロス大王の東方遠征によってペルセポリスが破壊されたときである。

ペルシア戦争(第1次)

ペルシア軍の最初の侵攻。前492年、ペルシアの陸軍がギリシア本土への侵攻をはかったが、海軍が暴風雨のため引き返したため、本格的戦闘にはならなかった。

 イオニアの反乱に際し、ギリシア本土のアテネなどのポリスがミレトスを応援したことに対し、ペルシアのダレイオス1世は懲罰の意味で軍隊を送ることとした。前492年、トラキア地方を侵略したが、海軍がエーゲ海北岸のアトス岬で暴風にあって壊滅、引き揚げた。なお、ペルシア戦争では以後4回まで戦闘が行われたが、これを第1回と算えない場合は、前490年の戦いを第1次として、3回の戦闘があったとすることもある。

Episode 「ご主人さま、アテナイ人のことをお忘れなく」

(引用)カンビュセスの死後、ペルシアの王位についたダレイオスは、偉大な支配者であった。いまやエジプトからインドの国境にいたる巨大な帝国の王となった彼は、すべてが彼の意のままになることをのぞんだ。……しかしギリシア人は、大きな帝国の一部になること、すべてを意のままにする独裁者にしたがうことに慣れていなかった。ギリシア植民地の住民は、多くがゆたかな商人であり、自分たちの都市を自分たちで運営することをつねとしていた。彼らは、支配されることも、ペルシアの王に税金を納めることものぞまなかった。それゆえ彼らは反乱を起こし、ペルシアの役人を追い払った。
 かつてこれらの植民都市を築いた母国のギリシア人、とくにアテナイ人は、反乱を支援し、戦艦をおくった。ダレイオスにとって、ちっぽけな民族が、ペルシアの大王、「王のなかの王」――これが彼の称号であった――世界の支配者である自分にさからうなど、ありえないことであった。彼は、小アジアのイオニア都市をただちにかたづけた。しかしそれだけではおさまらなかった。彼には、自分たちの事柄に手を出したアテナイ人がゆるせなかった。王は、アテナイを破壊し、ギリシアを征服すべく、大艦隊をつくらせた。しかしこの艦隊は嵐に巻き込まれ、岩礁にのりあげ、海に沈んだ。当然のことながら、王は怒り狂った。彼は奴隷に命じて食事のたびに、「ご主人さま、アテナイ人のことをお忘れなく」と三度となえさせたという。<エルンスト・H・ゴンブリッチ/中山典夫訳『若い読者のための世界史』上―原始から現代まで― 2012 中公文庫 p.76-77>

ペルシア戦争(第2次)

前490年のダレイオス1世軍によるペルシア軍による本格的なギリシア本土侵攻。マラトンの戦いでアテネ陸軍がペルシア軍を撃退した。

 前490年、再びアテネなどのポリスの討伐を目的にペルシアのダレイオス1世が遠征軍を派遣した。エーゲ海の島々を制圧しながらギリシア本土のアッティカ地方に上陸、マラトンの戦いとなった。迎え撃ったミルティアデス指揮のアテネ軍は重装歩兵密集部隊の活躍でそれを撃退した。なお、前492年の遠征からマラトンの戦いまでを一連の動きととらえて、第1次ペルシア戦争とする場合もある。

Episode 司令官ミルティアデスの知恵

(引用)そして彼(ダレイオス)は、巨大な艦隊とともに娘のむこをアテナイにおくった。途中で彼らは多くの島を占領し、多くの都市を破壊し、そしてアテナイの近く、マラトンと呼ばれる地に上陸した。そこからペルシアの大軍は、陸路をアテナイに向けてすすもうとしたのだ。その兵力は十万といわれており、それはアテナイの全住民の数をこえていた。アテナイ軍は約1万、すなわち十分の一であった。運命は、はじめからきまっていたかに見えた。しかし、そうではなかった。アテナイ軍は、勇敢で賢く、長くペルシア人のあいだで暮らし、彼らの戦い方を熟知していたミルティアデスという司令官をもっていた。しかもアテナイ人はみな、自分たちが何のために戦うのか知っていた。自由、生き方、妻や子のためである。彼らは、整然と隊を組み、面食らって混乱するペルシア軍に立ちむかった。アテナイ軍は勝った。ペルシア軍の多くがたおされた。のこった者はふたたび船にのり、沖へ漕ぎ出した。<エルンスト・H・ゴンブリッチ/中山典夫訳『若い読者のための世界史』上―原始から現代まで― 2012 中公文庫 p.77-79>
 ミルティアデスは勇敢であるだけでなく、聡明でもあったので、ペルシアの船隊は逃げ去ったのではなく、今は守る者がいなくなっているアテナイに向かったと見た。そこでアテナイに急を知らせる使者を出し、可能な限り速く走れ、と命じた。使者は走り続け任務を果たした。これが有名なマラソン競走のはじまりである。ミルティアデスも全軍をあげて同じ道をアテナイに向かい、アテナイについたとき、陸路より遠回りの海上コースをとったペルシア海軍が水平線上に姿を現した。ペルシア軍は先刻敗れた勇敢なギリシア軍と再び戦う気を失い、故郷へと船を向けた。こうしてアテナイだけでなく、全ギリシアは救われたのだった。マラトンでの敗北を聞いたダレイオス大王は怒ったが、その時エジプトに反乱が起こり、それに軍隊を送らなければならなかったので、ギリシアに対してすぐには手を打てなかった。間もなく大王は復讐を後継者クセルクセスに遺言して世を去った。<ゴンブリッチ『同上書』 p.79-80>

ペルシア戦争(第3次)

ペルシア軍が前480年にギリシア本土に再び侵攻した戦争。テルモピュライの戦いではスパルタ陸軍が敗れたが、サラミスの海戦でアテネ海軍が勝利した。

 前480年にペルシア帝国のクセルクセス1世が自ら大軍を率い北方からダーダネルス海峡をおし渡り、ギリシアに侵攻して始まった。ペルシア軍は8月テルモピュライの戦い(テルモピレー)でレオニダスの指揮するスパルタ陸軍を破り、さらにアテネに攻め入り、火を放った。アテネは敗色濃厚となったが、アテネの指揮官テミストクレスは婦女子を避難させ、男子はすべて三段櫂船の海軍に乗り込ませ、9月、サラミスの海戦でペルシア海軍に決戦をいどみ勝利した。ペルシアのクセルクセス王は陸上の決戦を避け、帰国したが、その後、彼は家臣によって殺害された。なお、前492年の遠征と前490年の戦いをあわせて第1次とする場合は、この前480年の戦いを第2次とする。

Episode ペルシア帝国の多民族軍

 クセルクセス1世のギリシア遠征軍はかつて無い大軍であった。ヘロドトスの文を借りれば「アジアに住む民族で、クセルクセスがギリシア遠征に従えなかった民族が一つでもあっただろうか。また大河川は知らず、この大軍勢の飲料に充てられて枯れ果てなかった河川があったろうか。」となる。陸上部隊の総数は170万に上り、動員された民族はペルシア人をはじめ、メディア人、アッシリア人、バクトリア人、スキタイ人、インド人、パルティア人、ソグディアナ人、アラビア人、エジプト人、エチオピア人などで、それぞれ民族独自の武装をして参加した。またフェニキア人やシリア人は1207隻の三段櫂船を提供した。<ヘロドトス『歴史』巻七 60~100節 岩波文庫(下) p.50-65> まさに、多民族軍という感じである。

ペルシア戦争(第4次)

ペルシア軍が前479年に行ったギリシア侵攻であるが、陸上ではプラタイアの戦いで、海上ではミュカレの海戦でいずれも敗れ、撤退した。前449年に講和が成立しペルシア戦争が終わった。

 サラミスの海戦で敗北したペルシア帝国のクセルクセス1世は戦闘意欲を失い帰国したが、なおペルシア軍はギリシア北部に残存し、翌前479年に再び南下してアテネに迫った。しかし、アテネとスパルタの連合軍は将軍パウサニアスが指揮し、7月、プラタイアの戦いでペルシア軍の侵攻を阻止した。海上ではミュカレの海戦でペルシア海軍が全滅。ペルシアのギリシア征服は完全に失敗に終わった。その結果、イオニア諸都市は独立を回復した。また西方のシラクサ(ギリシア人の植民都市)でもカルタゴ(フェニキア人の植民都市)海軍を撃退、東西でギリシアは勝利を得た。

ペルシア戦争の完全終結まで

 前479年でペルシア戦争の本格的戦闘は終わったが、まだ交戦状態は続き、小競り合いがあった。またギリシア側ではペルシア戦争後の主導権を巡って、アテネとスパルタの対立が表面化し、その情勢を見てペルシア帝国が介入、複雑な外交交渉が続いた。アテネはデロス同盟の盟主として「アテネ帝国」化を進めるとともに、国内でペリクレスアテネ民主政を完成させ、全盛期を迎えた。この前479年から前431年のペロポネソス戦争勃発までの50年間を「五十年期」といっている。
  • 前478年には、ペルシアの再侵攻に備えて、アテネを盟主としてデロス同盟が結成された。アテネは同盟を通じて他のポリスに対する統制を強めたが、もう一つの大国スパルタとの関係が次第に悪化した。
  • 前470年にはサラミスの海戦で名声を挙げたテミストクレスが武勲を鼻にかけて傲慢になり、陶片追放でアテネを追われた。
  • 前464年にはスパルタで大地震が発生、同時にヘイロータイの大反乱がおこった。アテネの親スパルタ派キモンはスパルタの要請を受け4千人の重装歩兵を派遣し、ヘイロータイの反乱を鎮圧した。しかし、スパルタがアテネ軍の駐留を危険視して撤退を申し入れたため、キモンの面目はつぶれ、前461年に陶片追放によって追放された。代わって若きペリクレスがアテネの新指導者として登場した。
  • 十年の追放を終えてアテネに戻ったキモンは艦隊を率いてキプロス島を攻撃。キモンは途中で死んだがアテネ海軍はキプロス島の奪回に成功した。
  • 前449年、アテネは対ペルシア、対スパルタの両面戦争に終止符を打ち、「カリアスの和約」でペルシア戦争は正式におわった。
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書籍案内

ヘロドトス
松平千秋訳
『歴史』
上中下3冊 岩波文庫

E.H.ゴンブリッチ
中山典夫訳
『若い読者のための世界史』上
2012 中公文庫

阿部拓児
『アケメネス朝ペルシア』
2021 中公新書