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アクティウムの海戦

前31年、アントニウス、クレオパトラ連合軍がオクタウィアヌスに敗れた海戦。ローマの地中海支配が完成した。

 前31年、オクタウィアヌスのローマ海軍と、アントニウスプトレマイオス朝エジプトクレオパトラの連合軍が、ギリシア西北の地中海上で対戦した海戦。オクタウィアヌス軍は数では劣ったが、アグリッパの指揮によって大勝、アントニウス軍はアレクサンドリアに敗走する。これによってオクタウィアヌスの覇権が確立してローマの内乱の1世紀が終わり、同時にプトレマイオス朝の滅亡によってローマは東地中海制海権を獲得することとなり、地中海を「われらの海」とする画期となった。このようにローマは帝国時配の条件を作り上げ、前27年、オクタウィアヌスがアウグストゥスの称号を元老院から与えられてローマ帝国へと移行する。
アクティウムの位置  アクティウムはギリシア本土の西岸、アンブラキコス湾の入口に位置している。アクティウムの海戦があったのはエジプト沿岸ではなく、ギリシア沿岸であったことに注意しよう。それはアントニウスの勢力圏がギリシアにあった事による。なお、アクティウムの海戦のあった海域は、1538年にオスマン帝国海軍がスペイン海軍などを破ったプレヴェザの海戦に近い(歴史地図で確認すること)。

アクティウムの海戦の諸相

 アクティウムの海戦は前31年9月1日、アントニウス麾下の500隻とオクタヴィアヌス麾下の250隻のガレー船で行われた。クレオパトラもアレクサンドリアから軍船を仕立て、自ら指揮してアントニウス軍を支援した。アントニウスの海軍の軍船は多くが五層漕ぎの大型船であったため重く、操縦が不自由であった。さらに漕ぎ手が不足し、十分な能力を発揮できなかった。それに対してオクタヴィアヌス側の軍船は2ないし3層漕ぎが大半で迅速な行動が出来た。戦闘は、互いにしっかりした材料で船腹を艤装していたので、かつてのような敵船に体当たりする戦法は、かえって自船が壊れてしまう恐れがあったので採られず、アントニウス軍は船のやぐらの上から投石機で石弾を浴びせ、オクタヴィアヌス軍は敵船に肉薄して飛び火道具で火を放つ戦法を採った。
 4時間ほどの戦闘で、アントニウス軍の軍船の多くは炎上し、航行不能に陥った。アントニウス軍の巨船が次々と沈んでいくのを見て戦況不利を悟ったクレオパトラは勝利を諦め、アレクサンドリアに向けて撤退を開始した。また、アントニウス軍の艦船の中にもオクタヴィアヌス軍に投降する軍船が出てきた。
 アントニウスは戦場を離脱し、ギリシア沿岸に逃れた後、クレオパトラを追ってアレクサンドリアに逃れた。しかし、クレオパトラはもはやアントニウスを見放していたので、復縁を拒否、失意のアントニウスはやがて自殺する。クレオパトラは再起を期してオクタヴィアヌスに近づこうとするが失敗し、彼女も自殺する。
 指揮官が逃亡したためアントニウス軍の残った艦船は降伏し、アクティウムの海戦は終わった。「その8日後、オクタヴィアヌスは海路アテネに向かい、コリントを除くすべてのギリシア都市の降伏を受けいれた。そして、直ちにアントニウス派の虐殺を始めた。ギリシア各地の住民は圧政を逃れるため、オクタヴィアヌスの彫像を建立し、またこの男を最高の栄誉で飾り立てた。」<ブノワ=メシャン『クレオパトラ―消え失せし夢』1979 両角良彦訳 みすす書房 p.315>
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ノートの参照
1章3節 ウ.内乱の一世紀
書籍案内

ブノワ=メシャン
/両角良彦訳
『クレオパトラ
―消え失せし夢』
1979年 みすず書房