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プトレマイオス朝エジプト

ヘレニズム時代のエジプトを統治したギリシア系の王朝。前304年に建国され、ヘレニズム三国の中で最も栄え、都アレクサンドリアが繁栄した。次第にギリシア的要素は薄まり、エジプト化し、前31年、女王クレオパトラがローマに敗れて滅亡した。

エジプトを支配したギリシア系国家

 前304年、アレクサンドロス大王の部将で、後継者(ディアドコイ)となったうちの一人、プトレマイオス1世が建国したエジプトの王国。都はアレクサンドリアで、ヘレニズム文明の中心地として栄えた。ヘレニズム三国の中で最も栄えた国であるが、次第にギリシア的な要素は薄くなり、プトレマイオス家の王もギリシア人の王としてではなく、エジプト伝統のファラオとして君臨し、オリエント的な専制政治を行った。
東地中海支配 プトレマイオス朝は積極的な海上進出を行った。プトレマイオス自身が西はキュレナイカ、東はフェニキアとシリア南部、北はギリシア南部と小アジア南岸、さらにエーゲ海の島々とキプロス島に及んだ。この東地中海の広大な海上支配権はエジプトの防衛に必要だっただけでなく、オリーブ、葡萄、レバノン杉、アラビアの香料などの交易圏を成り立たせる背景となり、さらに西地中海に急速に勢力を伸ばしてきたローマとの交易の場ともなった。

プトレマイオス1世

 マケドニア人。若い頃はアレクサンドロスとともにアリストテレスに学んだ。アレクサンドロスの部将としてその東征を補佐し、その死後、ディアドコイ(後継者)の一人としてエジプトの地方長官となり、前305年からエジプト王と称し、プトレマイオス朝を始めた。彼は文人でもあり、アレクサンドロス大王の伝記も残し、また都のアレクサンドリアにムセイオンという研究施設を建設し、各地から100人もの研究者を招いて自然や人文の研究を保護した。そのエジプト支配は、マケドニア人が支配層をかためたが、古来のエジプトの文化と制度を残し、ギリシア人(マケドニア人)にはギリシア法を、エジプト人にはエジプト法を適用、ヘレニズム三国の中では最も安定した支配を行った。しかしプトレマイオス朝の王は、次第にギリシア色が弱まり、エジプトのファラオの後継者として専制的な統治を行うようになる。プトレマイオスの子孫で、その最後の女王となったのがクレオパトラ(7世)である。

Episode アレクサンドロス霊柩車強奪事件

 アレクサンドロス大王は生前に、自分はエジプト西方のシーワ・オアシスのアモン神殿(ギリシア人にはゼウスのインデント同一視されていた)に埋葬されることを望んでいた。前323年、バビロンで大王が死ぬと、摂政ペルディッカスは遺体に防腐処理を施し、豪華な霊柩車を二年かけて作り、前321年にエジプトではなくマケドニアの古都アイガイに埋葬しようとして送り出した。ところが霊柩車がシリアを通過するとき、エジプト総督プトレマイオスが軍を差し向けてこれを奪い取り、遺体をエジプトに持ち帰ってしまった。彼は首都メンフィスで大王の葬儀を行って埋葬し、後に遺体をアレクサンドリアに移した。大王の遺体を自分の総督領に確保することで、プトレマイオスは他の後継将軍(ディアドコイ)にはない大きな威信を手にすることができた。大王の遺体を奪われた摂政ペルディッカスはプトレマイオス討伐に向かったが、討伐軍はナイル川渡河に失敗し、2000人もの溺死者が出た。怒った部下はペルディッカスの天幕に押し入り、殺害してしまった。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p.280> → アレクサンドロス大王の死
 プトレマイオス1世は、アレクサンドロス大王の遺体を手にいれることに成功し、アレクサンドリアに大王にふさわしい墓を造り、その遺体を安置した。これは自らの王朝の正統性を他の王朝に示す意味をもっていた。<吉村作治『クレオパトラの謎』 1983 講談社現代新書 p.52>

プトレマイオス朝の全盛期

 プトレマイオス2世は、1世に続いてエジプト古来の宗教との融合を図り、君主の神格化を進めた。ギリシア人には生きているものを神として崇める風習はなかったが、プトレマイオス2世はアレクサンドロス大王がエジプトでアモン神の子という託宣を受けたこと、父のプトレマイオス1世がマケドニアの攻撃からロードス島を救ったとき救済者の称号を与えられ、島にプトレマイオンという神殿ができたことなどを最大限に利用した。またプトレマイオス2世は王権の神聖化を示すため、自ら率先してエジプトの伝統である兄弟姉妹結婚を行い、プトレマイオス朝の王はこれ以降、このしきたりに従うことになった。
アレクサンドリアの繁栄 プトレマイオス3世は政治、軍事、学問、芸術のすべてで最も充実した統治を行い、プトレマイオス朝エジプトは東地中海全域をほとんど支配した。このころまでに首都アレクサンドリアは経済、文化の中心として繁栄の基礎が築かれ、ムセイオンにはエラトステネスアルキメデスエウクレイデス(ユークリッド)らが研究に従事した。

プトレマイオス朝の衰退

 プトレマイオス朝の没落は4代目のプトレマイオス4世から始まった。背景には近親結婚から来る複雑な王位継承問題、王家の芸術愛好の行き過ぎからくる政治の停滞、セレウコス朝との戦いなどでエジプト人兵士への依存が高まったため、エジプト人の自覚が高まったことなどが挙げられる。次のプトレマイオス5世は残虐な行為が多く、それ以後も兄弟や親子で殺し合う事態が続き、社会不安から民衆蜂起も起こるようになった。
ロゼッタ=ストーン ナポレオンのエジプト遠征のときにアレクサンドリアの近くで発見され、神聖文字(ヒエログリフ)解読のきっかけとなったことで有名なロゼッタ=ストーンは、紀元前196年にプトレマイオス5世の業績をたたえる石碑の一部である。ロゼッタ=ストーンはヒエログリフとデモティック、ギリシア文字が三段に分かれて彫られており、この時期にはエジプト文明とギリシア文明の両要素が併存するというヘレニズム文明の特徴をよく表している。

ローマのエジプト介入

 紀元前1世紀のプトレマイオス朝は内紛と王室の奢侈のため財産を浪費し、それを穴埋めするために、ローマの資本家から莫大な借金をするようになった。当時、急速に地中海全域に進出してきたローマは、エジプトの豊かな穀物生産力を狙い、有力者がエジプトに介入するようになっていた。

Episode エジプトの笛吹き王

 プトレマイオス11世は、ローマの有力者スラの支援を受け、義母で夫の死後王位についていたクレオパトラ=ベレニケと結婚して共同の王位を得たが、結婚後わずか19日で彼女を殺害し王座を独占した。このようにローマの力を借り、しかも卑劣なやり方で王位を独占した王に対して、アレクサンドリアの市民は激怒し、王を宮殿から引きずり出して殺してしまうと言う事件さえおこった。このためプトレマイオス家の家系が途絶えたため、前64年、傍系から迎えられたのがプトレマイオス12世であった。しかし、プトレマイオス12世は政治には疎く、いつも酒を呑んでは笛を吹いていたので、人々は彼を「笛吹き王」という意味のアウレテスと呼んだ。この王こそ、クレオパトラ7世の父であった。<吉村作治『クレオパトラの謎』1983 講談社現代新書 p.58,62>
プトレマイオス12世の復位 エジプト領のキプロス島が、ローマのカトー(大カトーの孫)の率いる軍隊によって攻撃され、前58年には属州にされてしまったが、アレクサンドリアのプトレマイオス12世はなすすべがなかった。むしろ、ローマに抵抗しないことによってその王座を守ったと言える。しかしアレクサンドリアの市民はそのような王に憤慨して暴動を起こしたため、王はローマに亡命、時の実力者ポンペイウスに保護された。アレクサンドリアでは王の娘ベレニケ(後のクレオパトラ7世の異母姉)が父に反旗を翻し、反ローマを掲げて王位についていた。ポンペイウスは前55年、部将アントニウスに軍を率いてアレキサンドリアに侵攻させ、ベレニケらを捕らえて処刑、プトレマイオス12世を復位させた。なおこのときアントニウスは28歳の血気盛んな青年将校、クレオパトラは14歳で、二人は顔を合わせる機会があったが、このときは互いにチラリと顔を見ただけだった。<吉村作治『同上書』 p.67,68>

クレオパトラ7世の即位

 前51年、プトレマイオス12世の死後、その娘で姉のクレオパトラ7世(18歳)と長男で弟のプトレマイオス13世(10歳くらい)が形式上の夫婦となり、共同統治することとなった。プトレマイオス13世の後見人であった宦官ポティノス、学者テオドトス、軍人アキラスはクレオパトラを除外して13世を操り、実権を握ろうとした。間もなくクレオパトラは王座を追われ、シリアに亡命、砂漠での野営生活を送らなければならなくなった。そこにローマの激動の影響がおよんでくることとなった。
カエサルとの邂逅 前48年、カエサルとのファルサロスの決戦に敗れたポンペイウスは、かつてプトレマイオス12世を保護したことから、エジプトに頼ろうと考え、アレクサンドリアに逃げ延びようとした。ところがプトレマオス13世の後見人たちは、カエサルに恩を売っておいた方が良いと考え、奸計でポンペイウスを殺害してしまった。遅れてアレクサンドリアに入ったカエサルは、敵とは言え、ローマの将軍であったポンペイウスがだまし討ちに遭ったことを知て嘆き激怒した。そのとき、急遽シリアから戻ったクレオパトラは密かにカエサルに面会、支援の約束を取りつけたが、同時に二人は深く愛しあうようになった。
 カエサルは、プトレマイオス13世とクレオパトラの双方を和解させ、13世にクレオパトラを共同統治者として復位させることを承認させた。しかしその後見人たちはクレオパトラの復位をなんとか阻止しようとした。
アレクサンドリア戦争 プトレマイオス朝側はカエサルとクレオパトラを殺害しようと海上から王宮を包囲、攻撃を開始した。カエサルは無勢のまま海上に逃れ、エジプト海軍の艦船に火を放つと、その火がアレクサンドリア市内に燃え移り、ムセイオンが焼け落ちたと言われている。海上でも激戦が続き、カエサルは海中に落ちるなど苦戦を強いられたが、何とか持ち直してエジプト軍を打ち破った。少年王プトレマイオス13世はこの時の乱戦で、ナイル川に転落、黄金の鎧が重すぎて浮かぶことができす、戦死した。
 カエサルはこの勝利によって、プトレマイオス朝に強要し、クレオパトラ7世を復位させ、もう一人の弟をプトレマイオス14世として形式的に結婚させ、共同統治させることとした。

クレオパトラ7世の統治

 クレオパトラとカエサルは親密度を増し、一時は多くの船を率いてナイル川を古都テーベからアスワンまで遡航した。カエサルはエジプトのファラオの巨大な権力を実感しと思われる。やがて二人の間にはカエサリオンが生まれ、クレオパトラは彼がカエサルの後継者であると同時に、プトレマイオス15世となり、ローマからエジプトまで、つまり世界帝国の皇帝となることを夢居見た。
クレオパトラ、ローマへ しかし、カエサルはローマを留守にするわけには行かず、9ヶ月のエイジプト滞在を切り上げ、途中小アジアを平定してローマに帰還、さらにヒスパニアや北アフリカに残るポンペイウス派の掃討を行い、ローマに凱旋した。そのときカエサルは、エジプトの女王としてクレオパトラはカエサリオンと共にローマにまねき、凱旋式に同席させた。しかし、ローマにはカエサルの正妻が居るので、クレオパトラは別邸に迎えられた。

プトレマイオス朝の滅亡

 カエサルは、旧来の元老院による共和政治にあきたらず、独裁者として振る舞ううちに、エジプトでオリエント的な君主政治にふれたこともあって、次第に皇帝になろうという意図をもつようになった。そのためにはパルティアを征服することが必要と考え、その準備に入った。しかし、元老院による共和政を維持しようとする一派は、カエサルの野望を潰えさせようと、ついに前44年、彼を暗殺した。カエサルに対する非難は当然、クレオパトラに及ぶことが考えられたので、彼女はカエサリオンと共に急遽、アレクサンドリアに戻り、そこで態勢の立て直しを図った。
アントニウスとクレオパトラ カエサルの死後、その後継者の地位をめぐってカエサルの養子オクタウィアヌスと争ったアントニウスは、自己の地盤を強めようと東方遠征を実行、その間、プトレマイオス朝エジプトと結ぶ必要を感じ、小アジアのキリキアでクレオパトラと面会した。クレオパトラもオクタウィアヌスが覇権を握れば、我が子カエサリオンは殺されることになることを恐れ、アントニウスと結ぶこととし、その魅力を発揮して彼を虜にした。
アクティウムの海戦 しかし、ローマを省みずにアジプトに居続けるアントニウスに対してローマの反発が強まり、オクタウィアヌスはついにクレオパトラ追討軍の派遣を決定、両軍はギリシアの西海岸で衝突した。それが前31年のアクティウムの海戦であった。アントニウスとクレオパトラの連合軍は連携にも不十分であったために敗れ、二人は別々にアレクサンドリアに戻り、アントニウスはクレオパトラの裏切りを疑いながら自殺した。クレオパトラはなんとかオクタウィアヌスに取り入る工夫をしたが、受け容れられず、前30年、毒蛇に胸を咬ませて自殺した。
 これによってプトレマイオス朝は滅亡した。アレクサンドロス大王がアレクサンドリアを建設した前331年から、300年が経過していた。なお、その遺児カエサリオンはインドに逃れようとしたが、途中捕らえられて処刑された。
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ノートの参照
1章2節 ケ.ヘレニズム時代
書籍案内

森谷公俊
『アレクサンドロスの征服と神話』
2007 興亡の世界史1
後に 2016 講談社学術文庫

吉村作治
『クレオパトラの謎』
1982 講談社現代新書