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オクタウィアヌス

前1~後1世紀、カエサルの養子で最終的に権力を獲得してローマ帝国初代皇帝となった。

 ローマ帝国初代の皇帝アウグストゥスとなった人物。カエサルの養子でその後継者となり、アントニヌスなどとの第2回三頭政治の後、アントニヌスと覇を争い、アクティウムの海戦で勝利して権力を確立し、帝政に移行させた。オクタヴィアヌスとも表記する。
 祖母がカエサルの妹。カエサルには(4度も妻を取りかえたが)男子に恵まれなかったので、このオクタウィアヌスを養子にした。彼は病弱でいつでも腹巻、襟巻、毛の帽子を離さず、薬を持ち歩いていたという。しかし意志力と決断力は優れており、カエサルはそこを見込んで後継者に指名したらしい。カエサルが暗殺された時はわずか17歳であったが、ただちにローマに駆けつけ、アントニウスに面会した。アントニウスは「坊や」といって取り合おうとしなかった。アントニウスがカエサルと同じ独裁者になることを恐れたキケロなどの元老院議員はオクタウィアヌスを支持、両者はモデナで戦い、オクタウィアヌスが勝利した。

第2回三頭政治

 アントニウスは同じカエサルの部将レピドゥスの仲介でオクタウィアヌスと講和し、前43年第2回三頭政治を成立させた。オクタウィアヌスは腹心のアグリッパを用い、支配体制の強化につとめた。前31年、エジプトのクレオパトラと結んだアントニウス軍をアクティウムの海戦で破り、ついで翌年アレクサンドリアを攻略してアントニウスとクレオパトラを自殺に追い込み、プトレマイオス朝を滅ぼした。

アウグストゥスの尊称を得る

 権力を掌握したオクタウィアヌスは、五十万の軍を二十万に削減、三十万を帰郷させて土地を買わせ農業に就かせた。また国家に対する私人の負債を帳消しにし、公共事業を興し、官僚組織を整備し、財政を再建させた。彼は連続十三回、執政官に当選、元老院を完全に抑えることができた。そのような情勢を背景に、前27年、アウグストゥスの称号を与えられ、事実上の最初のローマ皇帝となり、「ローマ帝国」を創始した。 → 皇帝としてのオクタウィアヌスは、アウグストゥスの項を参照。 → 元首政(プリンキパトゥス)

Episode 譲り合いの精神で生まれた?ローマ帝政

 「前27年、(オクタウィアヌスは)突然全権力を元老院に返還、共和政復帰を宣言、引退して一私人にもどると言った。まだ三十五歳、耳なれぬ「第一人者(プリンケプス)」という称号しか受けていない。元老院はそれにこたえて自分達自身も総辞職し、全権力をあらためてオクタウィアヌスに委譲し、国の全権を握って頂きたいと懇請、アウグストゥスすなわち「尊敬すべき人」という称号を奉る。オクタウィアヌスはいやいやながらという顔つきでこの懇請を容れた。両側で念入りに演出したこの芝居は、今や保守共和派の反抗が終結したことを天下に宣明した。誇り高い元老院も、混乱よりは独裁を選んだ。」<モンタネッリ『ローマの歴史』p.242>

オクタウィアヌスの権力掌握時期

 オクタウィアヌスが権力を獲得した経緯は次のようにまとめることができる。そのいつの時期をもって権力掌握とするかについては説が分かれている。一般的には前27年のアウグストゥスの称号を得た時を帝政の始まりとしているが、こと単純ではなさそうである。
 前30年 エジプトのプトレマイオス朝とアントニウスを破り、ローマに凱旋。その前後から「インペラトル」(凱旋将軍、最高司令官の意味)と言われる。
 前29年 元老院から「プリンケプス」(市民の中の第一人者)の称号を贈られる。
 前27年 内乱時の非常大権を元老院に返し、共和政再興への意志表示を行う。それを讃えて元老院は「アウグストゥス」(尊厳のある者)の称号を贈る。
  同 年 元老院と民会の決議により、イスパニア・ガリア・シリア・エジプトの軍隊命令権を10年間付与される。
      同時に属州総督(プロコンスル)命令権を元老院と分けて行使することを認められる。
  〃   護民官職権を付与される。
 前19年 コンスル命令権を付与される。
 前12年 最高司祭長(大神祇官)となる。
 前2年  「祖国の父」の名誉称号を贈られる。
オクタウィアヌスの実質的権力は前30年に「内乱の1世紀」を終わらせ地中海世界の安定をもたらしたときに成立した。さらに共和政との駆け引きの中で、「元首政(プリンキパトゥス)」という妥協点を見出し、「アウグストゥス」として実質的な皇帝となった前27年が権力を確立させた時期と言うことが出来る。
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ノートの参照
1章3節 ウ.内乱の一世紀