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アントニウス

前1世紀、カエサルの部将で第2回三頭政治の一角を占めた人物。有能な軍人であったがクレオパトラと結んでエジプトに拠点を移し、オクタヴィアヌスと対立、前31年、アクティウムの海戦で敗れて自殺した。

 アントニウスはカエサルのもっとも信頼の深い部将であった。暗殺直後にカエサルの後継者として遺言されるのは自分であると確信をもったが、実はカエサルが指名した後継者は、オクタウィアヌスだった。もくろみが外れたアントニウスはオクタウィアヌスと争ったが、元老院の支持がオクタウィアヌスにあるのを見て妥協し、同じ部将のレピドゥスを仲介にして第2回三頭政治を成立させた。三人はいずれもカエサルの部下や系列であり、アントニウスはオクタヴィアヌスの姉のオクタヴィアと結婚し、両者は手を結ぶこととなった。第2回三頭政治は、第1回と同じく、元老院を抑えるための有力者間の妥協であった。この三者で勢力圏を分割した際、アントニウスは東方属州を与えられたため、エジプトの支配権を得た。

クレオパトラとの関係

 アントニウスはエジプトに向かい、そこでプトレマイオス朝女王のクレオパトラの魅力に取りつかれてしまった。クレオパトラはカエサルとのあいだにカエザリオンという男子をもうけ、エジプトのプトレマイオス朝の後継者とするつもりでいたが、カエサルの死後、あらたな後ろ盾を必要としアントニウスと結ぶことにしたのだった。アントニウスはアレクサンドリアに移り住み、クレオパトラとのあいだに三児をもうけるほどでローマを省みなくなり、正妻オクタヴィアを無視するようになった。オクタヴィアは不平も言わず耐えていたというが、兄のオクタヴィアヌスは次第にアントニウスへの対決心を強めていったのであろう。
 前34年、アントニウスが自己の東方属州の要地をクレオパトラに寄贈することとしたことで、ローマにおけるアントニウス・クレオパトラに対する非難が高まった。さらに前32年、アントニウスがオクタヴィアを離縁したことでオクタヴィアヌスとの対立は決定的となった。すでにレピドゥスは前34年に失脚していたが、ここで正式に三頭政治は崩壊した。

オクタヴィアヌスとの戦いに敗れる

 前31年、オクタヴィアヌスはついにクレオパトラに宣戦布告し、9月2日、ギリシア西岸のアクティウム沖でローマ海軍とアントニウス指揮のエジプト海軍の決戦が行われた。このアクティウムの海戦でクレオパトラの海軍はあっけなく敗れ、アントニウスは逃れたが、翌年アレキサンドリアで自殺した。クレオパトラも自殺し、プトレマイオス朝は滅亡、エジプトはローマの属州とされ、オクタヴィアヌスの覇権は地中海全域に及ぶこととなった。

Episode 激動のローマ史に咲いた一輪の花 オクタウィア

 オクタヴィアヌスの姉で、アントニウスの正妻となり、クレオパトラに惑わされたアントニウスに離縁されたオクタヴィアという女性がいる。詳しい史実は判らないのであろうが、次のような想像力豊かな文も歴史家によって書かれている。
(引用)共和政末期の最後の局面において、夫と弟の間で揺れ動いたオクタウィアの気持ちはどんなものであったのだろうか。彼女はなにも語っていない。しかし、伝えられたところでは、彼女はアントニウスの血が流れる子供のすべてを引きとって育てたという。自分の産んだ子はもちろんのこと、アントニウスの前妻とその子供も、そしてクレオパトラとの間に生まれた子供ですらも例外ではなかった。流血の激動期に一輪の花が咲くように、その美談は人の心を打つのである。<本村凌二『世界の歴史5/ギリシアとローマ』1997 中央公論新社 p.317>
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ノートの参照
第1章3節 ウ.内乱の一世紀
書籍案内

シェークスピア
/福田恒在訳
『アントニーとクレオパトラ』
1973年 新潮文庫

桜井万里子・本村凌二
『世界の歴史5』
ギリシアとローマ
1997年 中公文庫