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咸陽

中国の秦の戦国時代からの都。統一後も首都とされる。秦滅亡と共に廃墟となった。

 戦国時代前350年孝公渭水流域関中に築いた都。後に始皇帝の統一によっての都が全中国の首都となった。陝西省の省都西安の北西、渭水の北岸にあたる。現在の咸陽市(咸阳市)は秦が滅亡するときに咸陽城も焼亡したため、その西方に新たに造られたもの。右の現在の関中地方中心地図を見ても判るように、現在は咸陽城の推定地域には渭河が流れており、その流路の変更で大きく削られたことがわかる。

秦の咸陽城・始皇帝陵・兵馬俑坑・阿房宮、漢の長安城の位置関係

関中 中心部地図

Googl 地形図+西嶋定生『秦漢帝国』p.131などをもとに作成

始皇帝の咸陽城経営

 始皇帝は咸陽に天下の富豪12万戸と移住させたという。さらに始皇帝は征服した中国全土に郡県制を施行し、中央集権化を図ったが、そのために、首都咸陽を中心に、郡県を結ぶ道路を整備した。この一種の国有道路網を「馳道(ちどう)」という。
 咸陽には宮殿が設けられたが、手狭になったため、さらに咸陽の南に新しい宮殿として阿房宮(あぼうきゅう)の建設を進めた。また咸陽の東に自分の陵墓として驪山陵(りざんりょう)を建設した。この新都城と山陵の建設は、万里の長城の修復と並ぶ大土木工事として人民の大きな負担となった。さらに、1974年には秦始皇帝陵の東、1.5kmのところに陵墓を守るためとおもわれる兵馬俑が数千体も埋葬されていた坑が発見され、世界を驚かせた。

咸陽の焼亡

 咸陽は、前206年、秦の滅亡の時に項羽の軍隊によって焼き払われて姿を消した。その炎は3ヶ月も消えなかったという。阿房宮もまたこのとき焼け落ちた。また南を流れていた渭水が流れを北に変えたため、咸陽城の南半分が削られてしまった。残された宮殿の建物の土台も風や雨水で運ばれた黄土で覆われ、長い間、忘れ去られることとなった。秦に代わって天下に号令することとなった漢の武帝(高祖)は、咸陽城の南に、都城長安城を築いた。長安城は現在の西安市の西北に、その遺跡を留めている。なお、唐の長安城は、さらに南、現在の西安市に重なる位置につくられた。

参考 咸陽宮遺跡の現状

(引用)渭水から窯店郷まで歩き、鉄道を横切ると、恵帝の安陵、高祖劉邦の長陵、呂皇后(太后)陵といった漢代の皇帝、皇后の陵墓群が間近に迫る。秦咸陽城の場所は、項羽に焼かれたあとに、前漢皇帝の陵園区となり、皇帝・皇后陵ほか臣下の陪葬墓や陵邑というが築かれた。陵邑という守陵都市を置くことは、始皇帝の麗邑(りゆう)からきている。窯店郷を走る舗装道路を右折し、咸陽原に延びている道を北上する。咸陽原を登りきったところに、1995年に開館したばかりの咸陽宮遺跡博物館があった。この博物館は一号建築遺跡のわきにつくったもので、将来この一帯を秦宮遺跡公園として整備する計画があるらしい。……
 咸陽原への登り口の道路に面した断崖には、現在の地表から2メートルほど下のところに秦代の地層があり、瓦片が埋もれている。黄土という土壌は、咸陽原の南端に、侵食された南北方向の溝を無数に形成している。雨が降れば、黄土の土壌を低い渭水の氾濫原に流すから、浸食溝が葉脈のように広がっていくのだ。その独特の地形が、発掘しなくても、断崖に秦の宮殿の遺構を露出させる。博物館の展示を見ているよりも、ずっと面白い光景だ。<鶴間和幸『始皇帝陵と兵馬俑』2004 講談社学術文庫 p.93-94>
上の文は,鶴間氏が2001年に発表した文章。咸陽宮のほか、秦始皇帝陵・兵馬俑坑・阿房宮などについて、最新の情報を伝えている。
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書籍案内

西嶋定生
『秦漢帝国』
1997(初刊1973) 講談社学術文庫

鶴間和幸
『始皇帝陵と兵馬俑』
2004 講談社学術文庫

著者が2001年に『始皇帝の地下帝国』(講談社現代新書)として発表したもに、その後の発掘調査の情報を加筆して、あらたに文庫化した。