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中国の王朝で、前221年に中国全土を最初に統一したが、わずか15年で瓦解した。

戦国時代にのは、七雄の中でもっとも西に位置していたが、早くに改革を実施して国力を蓄え、前221年までに周王室および他の6国を倒し、中国全土を統一した。都は咸陽(現在の西安の西方)。

秦の中国統一

 秦王政は、始皇帝と称し、郡県制の実施などの中央集権体制を急速に作り上げ、貨幣・度量衡・文字を統一した。法家の思想家である李斯を登用し、焚書・坑儒という儒家の思想の大弾圧を行った。また北方の匈奴の脅威を除くために万里の長城を建設し、阿房宮などの宮殿と自己の巨大な陵墓を建設したが、その際に多数の農民を徴発した。

秦の滅亡

 秦の始皇帝は子孫が永遠に皇帝として中国を支配することを願ったが、その死後に二世皇帝となった末子の胡亥には統治能力が無く、前210年、始皇帝の後を継いで二世皇帝が即位したが、翌前209年7月、陳勝・呉広の乱が勃発すると、各地で農民反乱が続き、一挙に崩壊する。反乱軍は内部対立から瓦解したが、それに呼応して決起した劉邦項羽などの勢力は強大となり、秦の中心地関中を目指し進撃し、前207年8月 咸陽が陥落し秦帝国は滅亡した。統一以来わずか15年であった。

Episode 秦滅亡のドラマ

 不老不死を願った始皇帝であったが、前210年巡幸先の河北で死去した。50歳。死に当たって始皇帝は長子扶蘇を次の皇帝にする勅書を作っていた。扶蘇は匈奴に備えて北辺の守りに就いていたが、人望があり、丞相の李斯の焚書坑儒などの政策に反対し、宦官を嫌っていた。そこで李斯と宦官の趙高は始皇帝の死を極秘とし、勅書を偽作して末子の暗愚な胡亥を皇帝に仕立て、扶蘇は謀反の罪で死罪にさせられた。こうして胡亥が即位して二世皇帝となったが、宦官の趙高のみを用い、李斯を遠ざけるようになった。李斯は二世皇帝に法家の厳格な政治をもとめる直言をしたがいれられなかった。翌年、陳勝・呉広の反乱がおこると、たちまち反乱は全土に拡大、二世皇帝は李斯を反乱軍に通じていると疑い、前207年、その一族とともに処刑してしまった。有能な官僚を亡くした秦は急速に求心力を失った。一人実権を握った趙高は、二世皇帝を殺害し、甥の嬰を秦王としたが、嬰は逆に趙高が反乱軍に内通していると疑い、即位礼の日に趙高を暗殺してしまう。そのような混乱のさなか、関中に進撃した劉邦の軍が咸陽に入り、秦王嬰は降伏した。ついで関中に入った項羽の軍は嬰以下の王族を殺し、咸陽の都城と阿房宮を焼き払い(その火は三ヶ月燃え続けたという)、驪山陵をあばいて財宝をことごとく奪い取った。<西島定生『秦漢帝国』講談社学術文庫版などによる>
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第2章3節 カ.秦の統一