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郡県制

中国の秦の始皇帝に始まる中央集権的に全土を支配するための制度。

始皇帝が採用した中央集権的な地方制度。全国を36の郡(後に48に増加)に分け、それぞれの郡には長官として守、副長官として丞、郡の指揮官として尉、監察官として監(御史)などの官吏を派遣し、中央集権的に支配した。さらに郡をいくつかの県に分けて統治した。この郡県制が、秦の中国統一政策の中で最も重要なもの。すでに戦国時代にの各国でも領内に郡県制を施行していたところもあった。秦では前4世紀中頃の孝公すでに採用していたという。戦国の世を統一した始皇帝李斯の建言を入れて封建制をとらず、郡県制を中国全土にしいた。周の封建制は天子が一族や功臣を諸侯として分封し、その地域の支配を世襲させるという政治体制であり、その基盤は氏族社会の血縁組織(共同体)を介して支配する体制であった。郡県制の統治原理は、国家が個人または家族を直接支配することであり、そのためには氏族共同体(宗族)が分解していることが前提であった。そのような状況は春秋戦国時代を通じて鉄製農具と牛耕の普及による農業生産の発達によって、村落における大氏族を分解させ、家族と個人を自立させることによって生み出されていた。また大規模な開拓や灌漑事業は、より広範な地域を支配する統一権力と、とのもとでの官僚制の必要をもたらした。そのような社会状況の下で封建制に代わってとられた統治システムが秦の始皇帝の郡県制である。秦の郡県制は急激な全国的施行が相当反発を受けたらしく、完全に実施されるまでに至らずに秦は滅亡した。

漢の武帝の実質的な郡県制への転換

呉楚七国の乱を鎮圧した漢帝国では、直ちに郡国制が廃止されたわけではなかったが、実質的に諸侯王の力は削減され、中央集権的な郡県制が実施されることとなった。まず、諸侯王の各国はその領域を縮小させられ、また国王の下で統治に当たる官吏は、中央から派遣されることとなった。これによって諸侯王は名目的な支配権を持つのみとなった。

封建制・郡県制・郡国制

:秦の次の漢の高祖は、始皇帝の急激な施策を改め、皇帝の直轄地には郡県制をしくが、それ以外では封建制を復活させ、有力者を王に封じて妥協をはかった。これが郡国制である。漢が完全な郡県制を施行するのは、呉楚七国の乱という有力諸侯の乱乱を鎮圧した後の、武帝の時代である。この、周の封建制→秦の郡県制→漢の高祖の郡国制→漢の武帝の実質的な郡県制への転換、という流れが、中国古代の国家形成のポイントとなるので、しっかり理解しておく必要がある。 → 隋・唐の州県制 
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第2章3節 カ.秦の統一