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サマルカンド

ソグド人の商業活動の中心地として栄えた中央アジアの都市。チンギス=ハンに破壊されたが、ティムールによって復興され、その帝国の都となった。

サマルカンド
現在のサマルカンド
モスクとマドラサに面したレギスタン広場
 ソグディアナ地方の中心として栄えたオアシス都市で、現在のウズベキスタン共和国第2の都市。ユーラシア大陸の交易ルート上に位置し、東西文明の交流の上でも重要な都市である。

アレクサンドロスの遠征とソグド人

 当初はマラカンダとして史料に現れ、前329年、アレクサンドロス大王の東方遠征軍がこの地に至ったことが知られている。また中国では唐代に康国という名前で史料に出てくる。古くからの交通の要衝で、イラン系のソグド人がここを拠点にシルクロードの東西交易に活躍し、この地方はソグディアナといわれていた。

トルコ人の定住とイスラーム化

 8世紀以降はトルコ系の活動が活発になり、そのころあわせてイスラーム教の勢力がこの地に及び、アム川からサマルカンドにかけての一帯は、マー=ワラー=アンナフル(川向こうの土地、の意味)と言われるようになり、サマルカンドもイスラム化が進んだ。10世紀にはカラ=ハン朝からは中央アジアのトルコ化が顕著となり、彼らがパミール高原の東西に定住することによってトルキスタンと言われるようになった。その後、サマルカンドはカラ=キタイ(西遼)、ホラズムなどの支配を受けるが、一貫して西トルキスタンの最も栄えた交易都市として続いた。

チンギス=ハンによる破壊とティムールによる再建

 1220年にチンギス=ハンの征服を受けて廃墟となったが、1370年にはティムールによって復興され、ティムール朝の都としてモスクやマドラサ(学校)が多数、建設された。その後も商業と学芸の中心として栄え、トルコ=イスラーム文化が花咲いた。特にティムールの中央モスクの壮大な建築、ウルグ=ベクによって建設された天文台やマドラサなどが有名である。ティムール帝国滅亡後はウズベク人のブハラ=ハン国に属することとなった。

ロシアによる保護国化

 19世紀にはいるとロシアの中央アジア進出が強まり、1868年、サマルカンドはロシア軍に攻略され、講和条約によってサマルカンドはロシアに割譲され、ブハラ=ハン国は事実上ロシアの保護国となった。サマルカンドもロシア文化の影響を受けたが、トルコ系の民族文化を自立の根幹に据え、教育の改革を行いながらロシアからの自立を目指すジャディードといわれる運動がブハラと共にサマルカンドでも盛んになった。1991年にソ連邦が解体してウズベキスタンが独立すると、首都タシケントに次ぐ文化都市として重要さを増している。

世界遺産 サマルカンド

 ソグド人以来栄えていたサマルカンドはチンギス=ハンの征服の際に破壊されてしまった。ソグド人時代の都市遺跡はその北西にアフラシャブの丘の地下に埋まっており、発掘品を博物館で見ることが出来る。現在の市街はその後、ティムールによってその隣に再建されたもの。ティムール朝の都としてサマルカンドには多くのティムール一族関係のモスク、マドラサ、バザールなどが建設され、郊外にはウルグ=ベクの建造した天文台跡も発掘されている。多くはその後変動で破壊されたが、現在は中心部のレギスタン広場に面したモスク、マドラサ群、ビビハニム・モスク、ティムール廟などが復興され、「サマルカンド・ブルー」と言われる青色のタイルで覆われた建物を見ることが出来る。